目標のない英語学習
会社勤めも7年になるが、何のスキルも能力もついていない気がする。自分の立ち位置もよくわからず、これといった目標も持てないでいる。
不安なので何か資格を取ろうと思うが、仕事に関係する資格がない。
たとえば、経理なら簿記、秘書なら秘書検定、専門職ならその分野のより高度な資格などを目指して努力し、それを仕事にいかせるのだろう。
羨ましいことだ。
そもそも私は、営業なのか事務なのかよくわからない仕事をしている。
知人に仕事内容を説明しても何をやっているかわからないと言われるので、私は本当に理解不能な仕事をしているのか、私の説明能力が著しく低いか、仕事をしている気になっているだけで、何もやっていないかのいずれかだろう。
転職関連の情報を集めてみると、やみくもに目的なく資格をとるのはむしろマイナス、というのが一般論のようなので、わざわざ苦労してマイナスの箔をつけようとは思わない。
でも、やはりなんだか不安だ。
そんな中、最近の教育関係のニュースを見ていて、危惧していることがある。本当に英語が使える日本人を育成するため、最近では小学生から英語が必修になり、大学入試も変わってライティングやスピーキングの能力も問うようになってきているらしい。
すると、この文科省の計画がうまくいけば、10年後、20年後に社会に出る日本人は我々の世代よりずっと「英語ができる社会人」になっているのだろうか。今は世代によってデジタル格差がある(年配の人は軒並みPCなどが苦手)と感じているが、将来は世代による英語格差が生じるのではないか。
そうなったら大変だ。英語のできない私はますます使い物にならなくなってしまう。そうだ、英語だ、英語を勉強しよう。
そう思って意味もなく単語学習などを通勤時間に始めてみたりしたものの、続かない。
なんでだろう?と考えたところ、今の仕事で英語を使う場面がほぼなく、英語を学習することによって到達すべき目標がないため、モチベーションを保てないのだと気づいた。
そもそも冒頭に書いた通り、私には仕事の目標もこれといってないのである。
よし、でもここまで書いていて、目標を立てるという目標を立てるべきだと気づいた。
良かった。次は目標を立てるための計画を立てよう。
歯を失って気づいたこと-私は何を残しただろう?
30年間虫歯ゼロ。
そんな数少ない私の自慢がもろくも崩れ去る事態が起こった。
思えば2か月くらい前から歯が痛かったような気がする。あれ、歯が痛むかも。中途半端に生えている親不知が自己主張し始めたのか?面倒だな、などと思いつつ、忙しさにかまけて放置していたのが悪かった。
「虫歯ですね。」
歯医者さんにそう言われた時は大袈裟ではなく死の宣告を受けたような気分になった。
「曲がって生えてきている親不知と隣の奥歯が虫歯になっています。結構進行しているので、奥歯は神経を抜くことになるかもしれません。親不知は早いうちに抜いてしまったほうがいいでしょう。」
これほど絶望的な気持ちになったのは久々だった。
親不知が抜かれ、奥歯がウィーンと削られていくあのいやな音を聴きながら、私の中で一つの“完璧”ががらがらと崩れていくのを感じた。
そして思った。
これから年を重ねていくというのはこういうことかもしれない。
健康だった歯が少しずつボロくなっていく。
疲れ知らずだった体が少しずつ疲れやすくなっていく。
つるつるすべすべだった肌には少しずつしわが刻まれていく。
その時、頭の中にあの歌の歌詞がよぎった。東日本大震災の復興支援ソング、「花は咲く」の一節。
“私は何を残しただろう?”
何も残せないまま、三十歳を迎えてしまった。何も残せないまま、このまま年だけとっていってよいのだろうか。
いや、よくない、今、体が朽ちていく前に、まだ若いうちにやりたいことをやって、そして何かを残さなければ。
この歯医者での一件をきっかけに、ブログを始めることにした。
それにしても歯医者でここまで考え込む大袈裟な人間は私くらいのものだろう。
なにせ、虫歯を通告された日、あまりのショックでお気に入りの傘を歯医者に置き忘れてしまったくらいなのだ。