くすぶりOL日記

いつの間にか母になった30代OLが仕事や子育て、ファッション、アラサー友達の生態などを気ままに綴ります

さよならAneCan、プランタン銀座、そして赤文字系の終焉

今週7日にAneCanの最終号が出ると聞いて、さっそく買ってきた。押切もえちゃんの表紙、この10年間の思い出を振り返る記事の数々…雑誌の最終号はなかなか切ない。

AneCanといえば、言わずと知れたCancamのお姉さん雑誌だが、このCancamもえびちゃんが専属モデルだった頃と比較して部数は大暴落していると聞く。

もちろん、雑誌が特に若い世代に売れなくなってきているのが原因の一つだろうが、20代向けファッション誌の中でもCancamの売上減は突出しているように思える。やはりもう一つの大きな理由が、いわゆる「赤文字系」がはやらなくなってきているということだろう。赤文字系とは、男性からの「モテ」を意識した、保守的なコンサバファッションのことだ。

そんな赤文字系が衰退していることを象徴するような、もう1つ大きなニュースが、プランタン銀座の閉店である。プランタン銀座には私の好きなブランドのお店がたくさん入っており、よく妹や友人と行ったものだった。先日、プランタン銀座に行ってみたら、セールコーナーばかりになっていて、とても悲しくなった。プランタン銀座は別称の商業施設に生まれ変わるというが、これまでのプランタン銀座のようなお店が入るとは期待できない。

振り返れば、この数年で私の好きな洋服のブランドは次々と消えていっている。キスミス、ネットディマミーナ、プライドグライド、ラバーラ…今も私のクローゼットの中にあるこれらのブランドの新作を買うことは、もうできない。

では、なぜ「赤文字系」の服が売れなくなっているのか

最近では、ファストファッションによるカジュアルなスタイルが主流となり、お金をかけず、気負わずファッションを楽しむ傾向が強くなっているように思う。そして、「モテ」がトレンドではなくなったように思える。かつてのCancamはその代表格だが、赤文字系はいかに男性からモテるかを意識した、いわば男性依存的なファッションだった。そんな男性依存的な意識から若い女性が脱却しつつあるのかもしれない。

話を冒頭のAneCanに戻すが、実はここ2年ほど、私はAneCanを買っていなかった。雑誌のいたるところから「敗者感」があるのが嫌だったのだ。アラサ―になって私たちは男性からちやほやされなくなった、若い女に負けている、私たちは弱者、といったような。

でも、本当にそうなのかもしれない。「ゆるふわ」ではもう勝てない時代に入っているのだ、きっと。

ところでここ最近私が読んでいるのは、ゆるふわ、かわいい系雑誌の「美人百花」である。

最近「美人百花」も付録に頼っている感があり、やや不穏な予感がしているが、ここに読者がいるので、AneCanの分まで是非頑張ってほしい。

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メールと電話 どちらが失礼か

先日他部署の課長に質問したいことがあって、メールで連絡した後輩が注意されていた。メールではなく、電話をよこせ、と言われているのである。

同じような経験は私にもある。メールで他部署の人に問い合わせをしたところ、「最近の若い者は何でもメールで済ませようとする」と注意されたのだ。

 

このような話は最近よく聞く。若手社員は問い合わせの手段としてメールをよく使うが、中堅以上の社員はメールを嫌い、電話で連絡しなければ失礼だというのだ。私が見聞きした感覚だとメール派と電話派に分かれる「境界線」は40歳くらいで、アンダー40はメール派、オーバー40は電話派である。

元々人と話すのがそんなに得意ではないこともあって、私もメールで済ませてしまうことが多いのだが、それ以外にもメールを選択する理由はある。電話だと相手がその時どんなに忙しい状況だろうと電話対応を強制することになり、特に急ぎの用事ではない場合、ある意味不躾なのではないかと思うのだ。冒頭の後輩も、急ぎの案件ではないし、お手すきの時にお返事をいただければ、という意図もあってメールを送ったのだという。果たして、メールでの連絡は本当に電話より失礼にあたるのだろうか。

 

アンダー40の私にはなぜメールが失礼なのかがよくわからない。軽く済ませようとしていると思われるのだろうか。でもメールの方が文面を吟味して送ることになるため、軽いとは思えない。もちろん緊急性の高いものは別だろう。メールのみだといつ相手に確認してもらえるかが不明確なので、少なくとも電話で様子をうかがうくらいのことはすべきだろう。また、証拠を残したくない連絡にも電話のほうが勝っている。しかし、「お手すきの時に教えてください」という内容を、顔見知りの社員に送るのに、メールは本当に失礼にあたるのか。

 

そう思っていた矢先、ネットで電話でなんでもすませようとする人が多くて失礼だ、という意見を見つけた。こちらの状況にかまわず、自分に都合のいい時に電話をしてくるのは、自己中心的で腹立たしい、というのである。そして、推測するにその「電話失礼説」を述べているのは比較的若い男性で、電話で連絡してくる「失礼な人」はオーバー40と思われる。

 

やはりこれは世代間ギャップの一つなのだろう。こうなってくると、もうケースバイケースで時と相手(の年齢)によって使い分けをしていくしかない。連絡手段が増えて便利になったのかむしろ面倒になったのか、それはどちらともいえない気がしている。

来ぬ人を

雑踏に紛れながら、彼が来るのを待っている。

待ち合わせをしていないんだから、彼が来るはずがない。

そもそも、もう別れてしまった人だから、会えるはずがない。

それなのに、人ごみの中に過去の二人の面影を探して、

じっとたたずんでいる、新宿東口の改札前。

 

来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くやもしほの身もこがれつつ

 

 

どこがいいんだ、BBQ

先日、会社の部署の仲間とバーベキューに行った。バーベキューに行くのは今年2回目である。

1回目のバーベキューは8月の中旬にあった。何もしなくても汗が滝のごとく流れる猛暑日で、こんな日に火なんておこしたら熱中症にでもなるのではないか、と思ったところ、突然めまいと吐き気に襲われて死にそうになった。それみたことか、熱中症である。

実は、私はバーベキューが好きではない。その理由は四つある。

第一に、たいてい会場が遠い。バーベキューは郊外の公園などで行うことが多いため、都心に住んでいるとアクセスが悪い。1時間以上電車に揺られた後バスで移動、あるいは誰かに車で送ってもらうことになったりする。

第二に、準備と片付けが面倒くさい。買い物をして、火をおこして、疲れ果てた後には片付けが待っている。肉は重いし、火はなかなかおこせないし、焦げ付いた油汚れはなかなか落ちない。すこぶる厄介である。

第三に、苦労して作ったわりに、料理があまりおいしくない。ぼんやりしている間に肉や野菜が焦げる。仮にうまく焼けたとしても特別おいしいごちそうにはならない。

第四に、無駄に疲れる。まず一日外にいるだけで疲れるものだが、会社のバーべキューだと上司や先輩を働かしてはいけないと無駄に動き回り、さらに立ちっぱなしの時間が長く、心身ともに消耗する。

第四に、朝が早い。せっかくの休日、ゆっくり寝て過ごしたいのにバーベキューという大義名分により、下手をすると平日より早く起こされる。

いやいや、友人知人との交流のため、バーべキューが必要なのですよ、というのなら焼肉屋に行ったほうがよっぽど楽しめるのではないかと思う。

このようにバーベキューとはろくでもないものなのに、バーベキュー会場に行くと必ずとても楽しそうにはしゃいでいる輩がいる。「ザ・リア充」という感じのその人種は、8月のバーベキューでも私が熱中症で死にかけている間に、やれ火がおこせたの、肉がうまいだのときゃっきゃとはしゃいでいた。本当に楽しいと思っているのか、それとも楽しいふりをしているのか。理解不能である。ついでにその強靭な体力を見習いたい。

で、今回のバーベキューに話を戻そう。夏ではないので大丈夫かと思って行ったら、今度は寒くて仕方がなかった。小雨は降るわ、湿気で火は起こらないわ。念のため重ね着をしてきたのにも関わらず寒さに手先が冷たくなり、風邪をひいて帰ってきた。体温調整も難しいバーベキュー。もうやめましょうよ…。

 

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欲しい服はいつも売り切れ

30代を迎えて、ますます洋服選びが難しくなってきている。

20代前半まで愛読書は『Cancam』(というか実は今もチェックしている)、週3回はワンピース、好きな柄は花柄、好きな色はピンク、という、「ザ・愛され系ぶりっ子ちゃんファッション大好きっ子」だった私は20代後半あたりから洋服難民になり始めたのだ。

これまでと同じ方向性で突っ走るとイタいおばさんまっしぐら。心なしか大好きだった『Cancam』系の服が似合わなくなっている気がするし、このままだとまずい!年相応にしなければ。

そう思って少しテイストを変えて洋服を探してみるものの、なかなかしっくりくる服がない。落ち着いた服を選ぶと地味に見える。急に大人っぽい服を着てみてもちぐはぐな印象だ。

せめて昔から好きなブランドの中でも大人っぽいデザインの服を選んだり、同じデザインでもピンクやイエローではなく、寒色系を選んだりしよう、と涙ぐましい努力をするようになった。これまでのように、第一印象でかわいいと思った服をそのまま買う、ということができなくなり、店頭でかなり吟味するようになったのだ。

このように店頭をうろうろしている優柔不断女を捕獲するのが店員さんだが、この店員さんがまたくせ者なのである。

「お客様ー、ピンクがきっとお似合いだと思いますよー。」

「こちらのデザインの方がかわいいと思いますよー。」

と、せっかく人が方向転換しようとしているところをあえてぶりぶりぶりっ子ちゃんへと元に戻しにかかってくるのだ。

その挙句、いやあ、ちょっとその服は子どもっぽくありゃしませんか?会社の後輩に若作りしているとかって思われたりしませんかね?などと声なき声が心の中でうずくまま、店員さんのカモになり、ついつい花柄スカートなんぞ買ってはいてみたところ、私より10歳年下の女子大生が同じ服を着ているところに遭遇してしまい、後悔の渦にとらわれる羽目になるのだ。

このような経験を経て、もともと優柔不断だった私は試着しても購入をためらうようになり、試着した後、いったん考えて一度頭を冷やしてから後日服の購入を決めることが多くなった。

結果、よし、買おう!を意気込んでお店を再来すると、お目当ての服はもう売り切れている、という悲劇に見舞われることが多くなった。

最近、本当に欲しい服はだいたいいつも売り切れている。

私が一寸の迷いもなく心から欲しいと思える服を手にする日は、はたして訪れるのだろうかー。

目標のない英語学習

会社勤めも7年になるが、何のスキルも能力もついていない気がする。自分の立ち位置もよくわからず、これといった目標も持てないでいる。

不安なので何か資格を取ろうと思うが、仕事に関係する資格がない。

たとえば、経理なら簿記、秘書なら秘書検定、専門職ならその分野のより高度な資格などを目指して努力し、それを仕事にいかせるのだろう。

羨ましいことだ。

そもそも私は、営業なのか事務なのかよくわからない仕事をしている。

知人に仕事内容を説明しても何をやっているかわからないと言われるので、私は本当に理解不能な仕事をしているのか、私の説明能力が著しく低いか、仕事をしている気になっているだけで、何もやっていないかのいずれかだろう。

転職関連の情報を集めてみると、やみくもに目的なく資格をとるのはむしろマイナス、というのが一般論のようなので、わざわざ苦労してマイナスの箔をつけようとは思わない。

でも、やはりなんだか不安だ。

 

そんな中、最近の教育関係のニュースを見ていて、危惧していることがある。本当に英語が使える日本人を育成するため、最近では小学生から英語が必修になり、大学入試も変わってライティングやスピーキングの能力も問うようになってきているらしい。

すると、この文科省の計画がうまくいけば、10年後、20年後に社会に出る日本人は我々の世代よりずっと「英語ができる社会人」になっているのだろうか。今は世代によってデジタル格差がある(年配の人は軒並みPCなどが苦手)と感じているが、将来は世代による英語格差が生じるのではないか。

そうなったら大変だ。英語のできない私はますます使い物にならなくなってしまう。そうだ、英語だ、英語を勉強しよう。

 

そう思って意味もなく単語学習などを通勤時間に始めてみたりしたものの、続かない。

なんでだろう?と考えたところ、今の仕事で英語を使う場面がほぼなく、英語を学習することによって到達すべき目標がないため、モチベーションを保てないのだと気づいた。

そもそも冒頭に書いた通り、私には仕事の目標もこれといってないのである。

よし、でもここまで書いていて、目標を立てるという目標を立てるべきだと気づいた。

良かった。次は目標を立てるための計画を立てよう。

歯を失って気づいたこと-私は何を残しただろう?

30年間虫歯ゼロ。

そんな数少ない私の自慢がもろくも崩れ去る事態が起こった。

思えば2か月くらい前から歯が痛かったような気がする。あれ、歯が痛むかも。中途半端に生えている親不知が自己主張し始めたのか?面倒だな、などと思いつつ、忙しさにかまけて放置していたのが悪かった。

「虫歯ですね。」

歯医者さんにそう言われた時は大袈裟ではなく死の宣告を受けたような気分になった。

「曲がって生えてきている親不知と隣の奥歯が虫歯になっています。結構進行しているので、奥歯は神経を抜くことになるかもしれません。親不知は早いうちに抜いてしまったほうがいいでしょう。」

これほど絶望的な気持ちになったのは久々だった。

親不知が抜かれ、奥歯がウィーンと削られていくあのいやな音を聴きながら、私の中で一つの“完璧”ががらがらと崩れていくのを感じた。

そして思った。

これから年を重ねていくというのはこういうことかもしれない。

健康だった歯が少しずつボロくなっていく。

疲れ知らずだった体が少しずつ疲れやすくなっていく。

つるつるすべすべだった肌には少しずつしわが刻まれていく。

その時、頭の中にあの歌の歌詞がよぎった。東日本大震災の復興支援ソング、「花は咲く」の一節。

“私は何を残しただろう?”

何も残せないまま、三十歳を迎えてしまった。何も残せないまま、このまま年だけとっていってよいのだろうか。

いや、よくない、今、体が朽ちていく前に、まだ若いうちにやりたいことをやって、そして何かを残さなければ。

この歯医者での一件をきっかけに、ブログを始めることにした。

それにしても歯医者でここまで考え込む大袈裟な人間は私くらいのものだろう。

なにせ、虫歯を通告された日、あまりのショックでお気に入りの傘を歯医者に置き忘れてしまったくらいなのだ。