くすぶりOL日記

いつの間にか母になった30代OLが仕事や子育て、ファッション、アラサー友達の生態などを気ままに綴ります

女は馬鹿な方がいい...なんてウソ

さすかにもう言われなくなったと信じたいが、私が学生だった頃はまだ「女は馬鹿な方がいい」説があった。高学歴女はモテない、結婚できないというのだ。


さて、それから10年近くが経った今、改めてこの「女は馬鹿な方がいい」説を検証してみると、少なくとも私の実感としては、まったくのウソだといえる。

例えば、ここ数年で結婚した、周囲の高学歴男性の結婚相手を見てみよう。

男: 東大院卒、女: 東大院卒 ×2組
男: 東大卒、女: お茶の水女子大卒
男: 東大院卒、女: 早稲田大院卒
男: 早稲田大卒、女: 早稲田大卒

とまあこんな具合で、もののみごとに高学歴男性はみな高学歴女性と結婚していた。彼らの出会いの場を聞いてみると、大学時代の研究室やサークル、あるいは職場だそうで、自ずと自分と同じような環境にいる同じような学歴の人と知り合い、結婚しているようだ。これは自然な流れのように思う。
彼らに聞くと、同じような環境にいる人の方が話が合う、結婚するなら一般常識の通じる人、経済的にも精神的にも自立している人がいい、などと言う。いや、なるべく馬鹿な女がいいですね、なんて言う人はいないのだ。

 

結婚のみに限らない。仕事ではもちろん、お馬鹿ではやっていられない。知識や高い能力を持ち続けないとだめだなぁと、だんだん若手ではなくなってきた今、強く思う。無知だと商談で恥をかくし、ただかわいいだけの女の子は飾り物で終わってしまう。以前何かの記事でアクセサリー女子、という造語を目にしたことがあるが、言い得て妙、だと思った。
つまり仕事でも絶対賢いほうがいいと思うこの頃なのだ。(さぁ、勉強するぞ)

 

結婚に話を戻すと、これは自論だが、同じような学歴、生活環境の者同士が結婚すれば、自ずと価値観が合い、1番うまくいくのではないかと思っている。
つまり、馬鹿な女がいいと言っている人は、その人自身が馬鹿なのだろうと思っている。
未だにそんなことを言っている男性諸君、自分の馬鹿さがバレるからやめましょう。

どんどんターゲットが高齢化するファッションブランド

さあ、夏に向けて新しい洋服が欲しい時期になってきた。張り切ってお買い物に繰り出すと、昨年に続き、今年もノンスリーブのワンピースが数多く出回っている。
自信を持ってノンスリーブを着こなせる女性は日本にどれだけいるのだろう。私は二の腕が太い上にちんちくりんなので、ノンスリーブのワンピースを着ると、ハンプティダンプティを彷彿とさせるスタイルになる。やれやれ困ったものだ。

さて、以前30代の洋服選びが難しいとブログに書いたが、最近とみに感じることがある。それは...ファッションブランドのターゲット、どんどん高齢化していますよね??ということ!
以下、ただの素人の洋服好きによる分析ですので、誤解などがあったらご容赦下さい。

 

1.ファッション雑誌のターゲットの高齢


たとえば、私が愛読している「美人百花」では、以前表紙に「26歳からの...」と書かれていたはずだが、いつの間にか「28歳からの...」に変わっている。
そして年齢層は上がったのに、載っているファッションはむしろより若い女の子向けのブランドのものにシフトしているように見える。もう卒業したつもりだったブランドが載っていて、あれ?まだ買ってもいいのかな、という気にさせられる。(おそらくそれが狙いだろう)

 

2.どんどん出てくるお姉さんブランド


たとえばセシルマクビーからお姉さんブランドのファビュラスバイセシルマクビーが生まれ、それがファビュラスアンジェラに変身。
レッセパッセのお姉さんブランド、デビュードフィオレが生まれ、そのさらにお姉さんブランドのHARYUが登場。先日デパートに行ったらHARYUで私の母親くらいの年齢の女性が試着をしていた。
これらの例は他にもあるが一度つかまえた客を同ブランドのシリーズに留めておこうという必死さがうかがえる。

 

3.通販サイトのモデルも30代に


これまで20代前半のモデルを使っていたブランドの通販サイトが、明らかに私より年上だと思われるモデルを使うようになってきている。
たとえば先述のデビュードフィオレ。最近のモデルさん、アラフォーに見えますよ。

 

4.ママさん店員大活躍


好きなブランドの店員さんのブログをしばしばチェックしている私。少し前までは20代前半の女の子のキャピキャピしたブログだったのに、最近はママさん店員のブログが目立つ。入園式で着られる服、子どもにママかわいい!と言われる服、など明らかにママ層にターゲットをシフトしている。

 

これらの動きを見ていると、いかに我々30代、それもついこの間まで何も悩まずモテ系かわいいファッションに身を包んでいた30代前半の女性を手放さないようにしているかがよく分かる。よほど今の20代が洋服を買わないということなのだろう。
このままだと私は40歳くらいまでCancam系の服を着続けることになるかもしれない。いやはや、おそろしい。

冷静沈着なのではない、心が死んでいるだけだ

楽しいGWも終わって、いつもにまして勤務中にだるさを感じる。睡眠をしっかりとっているのにこの疲れは何だろう。早くも5月病かもしれない。
隣の席の後輩ちゃんを見ると、いやはやパワフルで、休み明け早々バタバタと走り回っている。彼女はいつも一生懸命で、喜怒哀楽がはっきりしている。上司が無責任だとか、案件の進め方が支離滅裂だとかで、よく怒ったり泣いたりし、大きな案件がとれると飛び上がって喜ぶ。そんな彼女は私に、
「◯◯さんっていつも冷静沈着で、落ち着いてますよねー、私ももう少し落ち着かなきゃなぁと思います!」
と言う。
私は力なく曖昧に微笑むだけだ。

 

後輩よ、私は冷静沈着なのではない。心が死んでいるだけだ。
仕事をしていると、理不尽なことがたくさん起きる。自分が一生懸命準備していた案件が上司の鶴の一声でふっとんでぜんぶ無駄になったり(しょっちゅうある)、仕事の依頼先が締切を守ってくれなくて納期が遅れ、クライアントから怒られたり(前の部署ではよくあった)、腹の立つことも多い。
しかし、そんな時感情的に振る舞うのではなく、感情をコントロールするのが大事だと人は言う。私も20代前半の頃はよく怒っていたものだが、最近はそういうこともなくなった。本来の私は泣き虫だが、仕事で泣くことはない。これだから女は、と思われるのも嫌だし、若い子ならまだしも30代女が泣いているのはみっともないだけだろう。
このように、大人の対応を、と思っているうちに気づいたら心が死んだように感情がなくなってきていることに気づいた。だんだん自分の意思がなくなり、やがて自分がどう思っているのかもわからなくなっていくのだ。これはおそろしい。

 

そんな時、かの有名な茨木のり子さんの「自分の感受性くらい」という詩に出会った。
自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ、で終わる、心に響く詩だ。
感受性と感情はちょっと違うような気もするが、間違いなく心が乾ききり、感受性も鈍っているので、私はばかものである。
表面的にはポーカーフェイスでも、その時自分がどう思っているのかを自分で認識できるようにしておくことはとても大切だと改めて思う。こうしてブログなどを書くのも有効かもしれない。
会議でも自分の意見を持つように努めないと、どんどん自分の考えがなくなっていくので怖い。
感情をコントロールするのも良し悪しがあるよなぁと思う、今日この頃だ。


このGW、みなさんは自分の感受性を取り戻しましたか?

ひとりでできるもん!...どこまで?

私が大学生の頃だっただろうか、便所メシという言葉がはやった。大学の食堂で一人で食事をすることができず、トイレで食事をする若者がいる、というのである。一人でいると周囲から友達がいないかわいそうな人だと思われそうで、いたたまれないというのだ。当時は、ずいぶんナイーブな人がいるもんだなぁと驚いた。トイレで食事なんて考えただけで気持ちが悪い。

私はといえば、自慢じゃないが友達の少ない大学生だった。しかし、一人でも気にせず食堂に行き、隣の女子の恋バナを盗み聞きしながら食事をし、隙間時間には図書館で昼寝をしていた。それはそれで気ままで楽しい大学生活だったなぁと思う。

 

あれから数年の間で、「おひとりさま」はかなりの市民権を得たと感じている。雑誌でも、旅行や飲食店のおひとりさま特集をよく見かけるようになった。会社内でも休みに一人で海外旅行に行く女性がたくさんいる。
彼女達を見ていると、自立した女性という感じがしてかっこいいな、と思う。私は一人で海外旅行には行けない。一人がどうこうというより、語学力に不安がありすぎるからだ。

一人でできることと一人でするにはハードルが高いことがあって、その基準が人によって異なっているのは面白い。
たとえば、一人カラオケはだめだ、という人がいる。一人でしょっちゅうカラオケに行っている(歌うのではなく楽器練習のため)ので、私からするとなぜだめなのかが理解できない。
カラオケといえば、以前にカラオケ館で、誕生月に来店するとチョコレートパフェを無料でプレゼントしてくれる、というものがあった。一人カラオケをした際に、果敢にも注文してみたが、一人でいるところに店員さんが「お誕生日おめでとうございます!!」と言ってパフェを持ってきてくれた時はさすがに虚しくなった。誰か、一緒に私の誕生日を祝っておくれ...。私もヒトカラパフェバースデーは無理だった!もう2度とやるまい。

 

私の場合、一人でいるのを他人に見られることに関しては抵抗がないが、単純に一人でやってもその面白さを感じられないものがだめな気がする。対して便所メシ系の人(なんだそのネーミング)は、おそらく一人でいるところを見られることが苦痛だと思うので、彼らとはストレスを感じるポイントが違うのかもしれない。

 

しかし最近は、何も一人で行かなくても...と思う場所まで一人で行って、私はこれも一人でできるもん!と自慢する人たちまででてきた。ディズニーも行けるもん!焼肉もできるもん!といった具合である。
このように自慢大会にまでなってくると、もはや何が何だか...という気がしてくる。

 

亀を木に登らせようとする豚ー他人の苦手と向き合う


昔、大ヒットした小泉吉宏さんの漫画、「ブッタとシッタカブッタ」のシリーズに、亀を木に登らせる豚、という四コマ漫画があった。
やたらと気の強そうな豚が、ムチを持って亀に「この木に登れ」と命令をする。亀は必死に木に登ろうとする。しかし、当然だが亀は木に登ることができない。結果、亀はひっくり返ってバタバタし、豚は俺が命令しているのになんでこれができないんだ!と怒り狂っている。
こういう関係性はお互い不幸になるね、と示す、とても悲しい四コマ漫画だなぁと思う。

小泉さんの漫画が流行っていた頃、私は子どもだったのでその良さが深くは分からず、なんとなく読んでいただけだったが、先日たまたま改めてこの漫画を読む機会があり、この四コマ漫画が深く胸に刺さって泣きそうになった。


なぜこんなことを書いているかというと、ここ数年で、この亀と豚の関係性に匹敵するものを何度か見聞きし体験する機会があったからである。

たとえば、カップルの関係性。特に同年齢の婚活中の人を見ていると、自分の価値観に基づいた理想の伴侶像があって、それに基づいて人をジャッジしようとする人がいる。自分の理想に満たない部分があると、その欠点を何とか自分の理想通りにしようとして、相手を言葉の暴力で叩く。結果、その人を押しつぶしてしまい、破局を迎える。いわゆるモラハラ系彼氏というやつだ(きっと彼女版も存在する)。

たとえば、人前で部下を叱責するパワハラ系上司。適材適所で人に仕事を与えるのも管理職の仕事だと思うのだが、明らかにその人に向いていないポジションに配置して、その人の仕事のやり方を批判し、ねじ曲げようとする。結果、うつ病の社員が増えたりする。

誰にだって欠点はある。いや、むしろ欠点だと思っているのもその人の価値観でしかなく、本当は魅力的な部分なのかもしれないのに、それを叩きつぶしてしまう。


無理を言ったって人の性質はそうそう変わらないし、そもそも他人を自分の思い通りに変えようということ自体が間違いなのだ。
こんな当たり前のことがまかり通らないことがあって、自分も加害者にならないように気をつけようと心に誓う。

春ー花粉と風邪と酒やけとー

いよいよ春がやってきた。世間では新入社員の入社や人事異動などにより、フレッシュな気持ちで新年度を迎えている人も多いようだ。
我が社はというと数年前から新卒採用を停止し、9月締めの10月始まりなので、年度始めですらなく、フレッシュさのかけらもなく、ただくしゃみと咳でフロアが賑わっている。

くしゃみといえば花粉症だが、最近、「花粉症認めない族」が増加している。くしゃみが出る、目がかゆい、鼻水が止まらないなどと明らかに花粉症の症状が出ていながら、決して病院に行かず薬も買わず、自分は花粉症ではないと言い張る人々である。
花粉症の人を見ると、確かに辛そうである。顔が隠れるほど大きなマスクをし、目をしょぼしょぼさせ、ぼろぼろになりながら仕事をしている。ああはなるまい、あの仲間には絶対に入るまいという強い意志とプライドが、花粉症認めない族を生み出している。鼻水を垂らしながら、自分は花粉症ではないと強く主張し、現実から目をそらし続けるのだから往生際が悪い。さっさと負けを認めるべきである。ちなみに私も最近くしゃみを連発しているが決して花粉症ではない。

ところで、冒頭でくしゃみと咳で賑わっていると書いたが、あちこちから咳をする音が聞こえるということは風邪でも流行っているのだろうか。
咳がひどく声がガラガラになっている後輩に声をかけたら、いや、風邪じゃないんです...酒の飲み過ぎで...酒やけです...と死にそうな声が返ってきた。咳が止まらない同期に声をかけたら、特別休暇をもらって...途上国に旅行へ行ったら...大気汚染がひどくて...絶対肺が汚れて変な病気になったんだ...と、これまた死にそうな様子。
花粉症に咳に謎の病に、いやはや、春爛漫のオフィスである。

 

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来たるAI時代に備え「ドラえもんのび太とブリキの迷宮」を観る

日経ビジネスの記事を読んでいたら、ドラえもんの映画を観ることになった。
おそらく意味不明な思考パターンであろうから、きちんと説明しよう。

先日、日経ビジネスに孫泰造さんのインタビュー記事が載っており、2040年頃には現在の仕事の8割が消滅し、人間のやる仕事はどんどんなくなると書かれていた。AI時代がやってきて、今の仕事は大半が消滅するというのは去年からあちこちで耳にする論説だ。
こういう恐ろしい現象は私が死んでからか、せめて現役をリタイアしてから起きてほしいものだが、2040年なら23年後。私はまだ50代。最新の技術にすんなり適応できるほど若くはなく、しかしまだ隠居生活にも入れず、ただリストラ対象になる世代となっている、といったところか。最悪だ。

 

AIが人間から何かを奪う、という言説をきくと、いつも思い出すのが、幼い頃に観たドラえもんの映画、「ドラえもんのび太とブリキの迷宮」である。
映画の舞台は科学技術が発達し、ロボットが人間の代わりに働くようになったチャモチャ星。しかし、ロボット技術が進歩しすぎ、 歩くことすら放棄した人間は体が弱り、自立歩行もままなくなる。ロボットの開発までロボットに担わせた結果、ロボットの反逆が起き、人間はロボット達に捕らえられてしまう。そのチャモチャ星を救うため、ドラえもん達一行が闘う、といったストーリーだ。
ロボットと人間の戦いを描いた作品は他にもいろいろあるだろうが、幼い頃に何度も観たせいか、この映画の印象は特別強い。そこで、冒頭に書いた通り、15年か20年ぶりにこの映画を観てみた次第である。

改めて観て感じたことは、90年代前半に、それも子ども向けに作られた映画としては、ロボットあるいはAIが発達しすぎることによる危機が本当によく描かれているということだ。ロボットが従来の人間の仕事を担うようになり、働かなくなった人間はどんどん衰えていく、という展開やコンピュータウィルスによって親玉をやっつけると子分ロボットにまでウィルスが広がっていくというネットワークのもろさまで、現在の大人でも学ばされる要素は多い。何より、「道具ばかりに頼っていると、自分では何にもできないダメ人間になってしまうよ」というドラえもんのセリフにはドキッとさせられる。
一方で、科学技術が発達した世界のロボットという設定なのに、ロボット達がねじまき式で、敵なのにかわいらしさがある点や、サンタクロースがスネ夫ジャイアンの危機を救うなど、子ども向け映画らしいほっこりするユーモアもある。

残念なのは、のび太達が最終的にドラえもんの道具なしでは勝つことができず、人間対ロボットという構図であるべきところが、人間にとって善良なるロボット対悪なるロボット、あるいは道具対道具の争いになってしまっている点だ。道具なしでは人間はロボットと互角に戦えないのか、とちょっと悲しくなる。

 

さて、話を冒頭に戻すが、この映画は決して子ども向けの作り話ではなく、身近に迫っている危機のように思える。
以前、自動運転の車のニュースを見て、友人と、そのうち私達は車の運転すらできなくなるね、と話したことがある。考えてみれば、私たちはスイッチなしでは風呂も沸かせない 、できないことが随分増えたね、と。


人間は進化しているのだろうか。道具によって退化しているのではないか。AIの発展は本当に人間に幸せをもたらすのか。人間の能力を奪い、人生の過ごし方の選択肢を奪うことにはならないか。
ドラえもんを観ながら首をかしげる30代がここにいる。