くすぶりOL日記

アラサーOLが仕事やファッション、アラサー友達の生態などを気ままに綴ります

春ー花粉と風邪と酒やけとー

いよいよ春がやってきた。世間では新入社員の入社や人事異動などにより、フレッシュな気持ちで新年度を迎えている人も多いようだ。
我が社はというと数年前から新卒採用を停止し、9月締めの10月始まりなので、年度始めですらなく、フレッシュさのかけらもなく、ただくしゃみと咳でフロアが賑わっている。

くしゃみといえば花粉症だが、最近、「花粉症認めない族」が増加している。くしゃみが出る、目がかゆい、鼻水が止まらないなどと明らかに花粉症の症状が出ていながら、決して病院に行かず薬も買わず、自分は花粉症ではないと言い張る人々である。
花粉症の人を見ると、確かに辛そうである。顔が隠れるほど大きなマスクをし、目をしょぼしょぼさせ、ぼろぼろになりながら仕事をしている。ああはなるまい、あの仲間には絶対に入るまいという強い意志とプライドが、花粉症認めない族を生み出している。鼻水を垂らしながら、自分は花粉症ではないと強く主張し、現実から目をそらし続けるのだから往生際が悪い。さっさと負けを認めるべきである。ちなみに私も最近くしゃみを連発しているが決して花粉症ではない。

ところで、冒頭でくしゃみと咳で賑わっていると書いたが、あちこちから咳をする音が聞こえるということは風邪でも流行っているのだろうか。
咳がひどく声がガラガラになっている後輩に声をかけたら、いや、風邪じゃないんです...酒の飲み過ぎで...酒やけです...と死にそうな声が返ってきた。咳が止まらない同期に声をかけたら、特別休暇をもらって...途上国に旅行へ行ったら...大気汚染がひどくて...絶対肺が汚れて変な病気になったんだ...と、これまた死にそうな様子。
花粉症に咳に謎の病に、いやはや、春爛漫のオフィスである。

 

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来たるAI時代に備え「ドラえもんのび太とブリキの迷宮」を観る

日経ビジネスの記事を読んでいたら、ドラえもんの映画を観ることになった。
おそらく意味不明な思考パターンであろうから、きちんと説明しよう。

先日、日経ビジネスに孫泰造さんのインタビュー記事が載っており、2040年頃には現在の仕事の8割が消滅し、人間のやる仕事はどんどんなくなると書かれていた。AI時代がやってきて、今の仕事は大半が消滅するというのは去年からあちこちで耳にする論説だ。
こういう恐ろしい現象は私が死んでからか、せめて現役をリタイアしてから起きてほしいものだが、2040年なら23年後。私はまだ50代。最新の技術にすんなり適応できるほど若くはなく、しかしまだ隠居生活にも入れず、ただリストラ対象になる世代となっている、といったところか。最悪だ。

 

AIが人間から何かを奪う、という言説をきくと、いつも思い出すのが、幼い頃に観たドラえもんの映画、「ドラえもんのび太とブリキの迷宮」である。
映画の舞台は科学技術が発達し、ロボットが人間の代わりに働くようになったチャモチャ星。しかし、ロボット技術が進歩しすぎ、 歩くことすら放棄した人間は体が弱り、自立歩行もままなくなる。ロボットの開発までロボットに担わせた結果、ロボットの反逆が起き、人間はロボット達に捕らえられてしまう。そのチャモチャ星を救うため、ドラえもん達一行が闘う、といったストーリーだ。
ロボットと人間の戦いを描いた作品は他にもいろいろあるだろうが、幼い頃に何度も観たせいか、この映画の印象は特別強い。そこで、冒頭に書いた通り、15年か20年ぶりにこの映画を観てみた次第である。

改めて観て感じたことは、90年代前半に、それも子ども向けに作られた映画としては、ロボットあるいはAIが発達しすぎることによる危機が本当によく描かれているということだ。ロボットが従来の人間の仕事を担うようになり、働かなくなった人間はどんどん衰えていく、という展開やコンピュータウィルスによって親玉をやっつけると子分ロボットにまでウィルスが広がっていくというネットワークのもろさまで、現在の大人でも学ばされる要素は多い。何より、「道具ばかりに頼っていると、自分では何にもできないダメ人間になってしまうよ」というドラえもんのセリフにはドキッとさせられる。
一方で、科学技術が発達した世界のロボットという設定なのに、ロボット達がねじまき式で、敵なのにかわいらしさがある点や、サンタクロースがスネ夫ジャイアンの危機を救うなど、子ども向け映画らしいほっこりするユーモアもある。

残念なのは、のび太達が最終的にドラえもんの道具なしでは勝つことができず、人間対ロボットという構図であるべきところが、人間にとって善良なるロボット対悪なるロボット、あるいは道具対道具の争いになってしまっている点だ。道具なしでは人間はロボットと互角に戦えないのか、とちょっと悲しくなる。

 

さて、話を冒頭に戻すが、この映画は決して子ども向けの作り話ではなく、身近に迫っている危機のように思える。
以前、自動運転の車のニュースを見て、友人と、そのうち私達は車の運転すらできなくなるね、と話したことがある。考えてみれば、私たちはスイッチなしでは風呂も沸かせない 、できないことが随分増えたね、と。


人間は進化しているのだろうか。道具によって退化しているのではないか。AIの発展は本当に人間に幸せをもたらすのか。人間の能力を奪い、人生の過ごし方の選択肢を奪うことにはならないか。
ドラえもんを観ながら首をかしげる30代がここにいる。

それいけ!貧乏ダイエット!

社会人になってから少しずつ体重が増加している。
少しずつ、というのは1年に1㎏程度だ。1年に1㎏というと1ヶ月単位では100gにも満たない範囲での増加ということになり、ほぼ誤差、体重計では分からない程度の増加ということになる。
そこで大して気にもせず放っておいたら、いつの間にか学生時代と比較して6㎏くらい体重が増加していた。これはまずいとようやくダイエットに目覚めた次第である。

さて、とりあえず運動をしようと思ったが、ジムというものは月会費が高い。せいぜい週に1回行くのが限界で、ベルトコンベアーのようなものの上でドスドスと足踏みしているだけで月1万円が飛んでいく。お金がもったいないので、いかにお金をかけずに運動をし、痩せるかということを考えて実践してみた。名付けて貧乏ダイエットである。

 

まず、ゼロ円で痩せるには、その辺を走り回るのが手っ取り早いだろうと思った。
しかし、近所に遊歩道のような優雅なものはないので、所狭しと並んでいる住宅街のなかをひたすら突っ走るしかない。静まり返った家々のあいだをわたしの足音が響き渡ってなんともきまりが悪く、さらにとつぜん家から飛び出して来た子どもとぶつかりそうになるなど、危険なシーンもしばしば。その上、思ったよりも信号が多く、しょっ中立ち止まらないといけないことに気づいた。走りにくいし、事故の危険性はあるし、何より近所迷惑である。以上の理由から、近所のランニングは断念した。

 

次に目をつけたのがフラフープダイエットである。Amazonで組み立て式のものが千円台で売られており、貧乏ダイエットにはぴったりだ。しかし、なにぶん安いゆえ、口コミを見ると、回している途中でフラフープが空中分解し、部品がすっ飛んで窓ガラスが割れたなどという恐ろしい報告もあったが、臆せず購入してみた。幸い私のフラフープは空中分解しなかったが、これは意外に場所をとり、ごちゃごちゃした狭い私の部屋で実践するには不向きである。特に厄介なのは大きな姿見にフラフープがぶつからないよう、細心の注意を払わないといけないことだ。仕方ないので家族の部屋でフラフープを回していると、邪魔だのなんだのとクレームがきて、非常にやりづらい。
以上の理由から、フラフープは断念した。 

 

次に目をつけたのは、プール通いである。プールといってもジムにあるプールではなく、区民プールだ。2時間400円。これも貧乏ダイエット向きだ。
さて、通おうとするとこれがなかなか面倒臭い。まず、メイクを全て落とさないといけない。次に私は目が非常に悪いのにコンタクトを外さないといけない。度付きのゴーグルは高いので買わない。さらに、私は意味もなく無駄に髪が長い(腰のあたりまである)ので、髪を水泳キャップに詰め込むのに苦労し、乾かすのにも一苦労。極め付けに冬のプール帰りはとても寒かった!
以上の理由から、そろそろ暖かくなる時期だが、暖かくなる前に水泳を断念して今に至る。

 

ついにはダイエットそのものを断念する日も近いかもしれない。

英語、英語というけれど、みんな国語をなめんなよ

 

 

 

新しい学習指導要領の改訂内容が発表された。小学校3年生から英語の授業が加わり、小学校5年生から評価の対象となる。さらに、センター試験が廃止され、外部の民間試験による英語四技能の成績が大学入試に活用されるらしい。私の周囲だけかもしれないが、英語ばかりが取り沙汰されて、英語、英語とやたらとうるさいが、国語が軽視されていないか気になってしまう。

センター試験に代わる新しい入試問題では記述式の問題も導入されるようなので、決して軽視されてはいないと信じたいが、私がついつい国語という教科の扱いを気にしてしまうのは、大学時代、日本文学専攻で、まったく活用できていないが国語教育について少々かじり、教員免許も取得したからだろう。

 

国語が得意な人というのは他教科が得意な人と比較して、評価されにくい気がする。数学が得意、英語ができるとなると尊敬されるが、国語の場合は、「国語は日本語なのだから勉強しなくてもできる」と軽んじられる傾向にある。しかし、本当に「勉強しなくてもできる」のだろうか。

私は何も難解な古文・漢文の重要性について訴えたいのではない。(古典についても日本人の教養としてある程度は知っておきたいところではあるが)そうではなく、日常で求められる「読み・書き」の学習がきちんとこなせているのか、という点が気になるのだ。というのも、最近気がかりな記事をよく見かけるからである。昨年驚いたのが教科書レベルの基本的な文章を読めない中学生が多くいることを報じた「東ロボくん」のニュースだ。この報道から、文章の直前だけを見ていて文の構造を捉えられない生徒が一定数いることが浮き彫りになった。

 

LINEなど短文(あるいはもはや文ですらないスタンプ)でやりとりができるSNSに慣れた結果、長文が読めない子どもが増えているという調査結果も散見される。

私は教師ではないので、学生の読解力が本当に落ちているのかどうか現状を知ることはできないが、これはどうも学生に限った話ではないらしい。新入社員に読書感想文を書かせているという驚きの会社の記事もあった。

何も学校ではないのだからそこまでやらなくてもよいのではないか、担当する先輩社員もここまで面倒を見なくてはならないなんて大変だな、というのが率直な感想だが、しかし、そうでもせずには業務に支障が出るほど「国語力」の低下に危機を覚えているのだろう。

これらの記事を読んで私は「ほらね、勉強しなくても国語ができるなんてウソでしょ。国語をなめんなよ」と改めて思うのである。

 

もちろん、これからの世の中で英語は必要だろう。しかし、日本語が廃止でもされない限り、日本人はこれからも日本語で生活をし、日本語を母語としてアイデンティティを確立し、日本文化を海外に発信していくことになるだろう。ほとんどの日本人にとってこれからもコミュニケーションの礎となるのは日本語なのだ。

今の状況だと、英語も日本語も中途半端にしか身につかない人が増えてしまうのではないかと心配している。だから、国語もきちんと「勉強」しましょうね。

今、よみがえる受験のトラウマと脳内BGM病

センター試験も終わり、受験生はいよいよ本格的な受験モードに入っていることだろう。

大学受験をしたのももはや遠い昔、今となっては受験と縁のない生活を送っている私だが、未だにセンター試験のニュースを見ると、当時のセンター試験の記憶がフラッシュバックする。

雪が降るとの予測だったので、この東京の脆弱な交通機関に乱れが生じないかハラハラして前日眠れなかったことや、当日雪が降りしきる中、風邪をひかないようにとエスキモーのような格好をして会場に向かったこと、思うように点数がとれず、泣きながら自己採点をしたことなど、そのどれもがトラウマ以外の何者でもない。

それほどセンター試験は私にとってプレッシャーの大きいものだったのだと思う。

 

さて、時間との勝負といわれるセンター試験はもちろん、勉強というのは集中力が試される。受験生の頃は、もし試験本番で集中できなかったらどうしよう、という恐怖すらあったほどだ。

その頃私を悩ましていたのが、脳内BGM病という世にも恐ろしい病である。

これは、試験の最中など絶対に集中力を切らせてはいけない時に、突然脳内で大音量のBGMが本人の意思とは関係なしに選曲され、再生されるというものだ。

私が受験生の時に頻繁に脳内で再生されていたのは、タッキー&翼の「Venus」であった。私はタッキー&翼のファンでもなんでもなかったのだが、そんな本人の趣味嗜好は無視され、いざ集中、という時に勝手にチャッチャのリズムが始まってしまう。確かセンター試験当日まで、タッキー&翼と戦った記憶がある。ゆったりとしたクラシックでも流れてくれればよいのだが、選択の余地は与えられていないので、敵はもはや隣の受験生ではなくタッキー&翼だ。ひどいものである。シルクロード、愛は千里、ためらうなら忘れたい!

 

ところで、これは何も私に限った症状ではないらしい。高校受験の時、友人が私に先駆けて脳内BGM病と戦っていると打ち明けてくれたことを覚えている。当時はモーニング娘。の全盛期で、彼女の脳内では勝手にミニモニ。の「ミニモニ。ひなまつり!」が流れてしまうのだと話していた。推薦入試の作文を書いている最中に、頭のなかは一年中がひなまちゅり、だったらしい。(曲をご存じない方は是非調べていただきたい) なんともばかばかしい話のようだが、本人はミニモニ。との戦いに必死である。ちなみに彼女は無事にひなまちゅりに打ち勝って第一志望校に合格した。

 

脳内BGM病はその後も集中力を試される時に限ってよく発症していたが、気づけばここ何年も発症していない。治ったのかと思ったが、そうではなく、最近は入試ほど集中力を要する場面に遭遇していないだけなのだろう。受験生の皆さんには、受験前にはなるべく音楽番組などを見ないようにアドバイスしたい。

年賀状の失敗あるある

年賀はがきの発行枚数が年々減少しているとニュースになっているが、皆さんは今年、年賀状を出しただろうか。私の勤務先は古い体質であるせいか、まだ年賀状の文化が根強く、出さないと年明け早々、少々肩身の狭い思いをする。そこで面倒くさいことこの上ないが、年賀状を出さざるを得ない状況がずっと続いている。

年賀状準備の最も憎き点は、大切な大切な年末年始休暇の一部を奪っていく点である。計画的にクリスマス頃までに年賀状を用意しておけばよいのだが、とにかくやる気がないので、準備は後手に回り、休暇に入った29日からやっと制作にとりかかることになる。だいたい60人分ほどの住所を確認し、喪中の確認をし、デザインを決め、印刷をし、めんどくせえ、やってられるかと悪態をつきながらメッセージを書いていると、たいてい30日の夜である。下手をすると31日にまでずれ込む。もうこれで休暇の半分が消えてしまう。実に腹立たしい。挙句の果てに31日にポストに投函した際には、元旦に年賀状が届いていないと言われる始末だ。苦労した上に、文句まで言われるなんてたまったものではない。

そんなこんなで憎き年賀状であるため、一刻も早く仕上げてしまうと作業は往々にして雑になる。これは他の社員も同様なようで、毎年様々な年賀状のミスが発生している。住所が間違っている、名前の漢字が間違っているなどは序の口で、いろんな「恥かき年賀状」が見受けられるので、羅列してみよう。

 

・あぶり出し年賀状

裏面が白紙である。ひょっとしてあぶり出しかと思ってしまうがなんてことはない、印刷のし忘れである。

・差出人不明

これは毎年ある。差出人が書いていない年賀状だ。筆跡や、印刷されている子供の写真から差出人の推測が求められる。

・余計なものまで印刷している

以前一人暮らしをしていた頃、会社の名簿に ※実家の住所 と注意書きをしておいたら、その注意書きまで印刷して送ってきた者がいた。 ○丁目▽番★号※実家の住所。

不思議な住所である。

・明らかに違う人宛のメッセージが書かれている

一度もランチに行ったことがない人から「今年も一緒にたくさんランチにいけるとよいですね♪」などと書いていたことや、同期から明らかに上司にあてた文面の年賀状が届いたことがある。私宛のメッセージはいったい誰のもとに届いてしまったのだろう。

・同じ人から2通来る

これもよくある、ご丁寧に別々のメッセージが書かれていたりする。

・喪中はがきを出したのに来る

こちらも喪中ハガキを出し忘れたかと心配してしまう。

 

このようにいい加減に年賀状を作っていると、正月早々から恥をかく上、ブログのネタにまでされてしまうので、 今後は注意したいものだ。でも何よりも年賀状文化がなくなることに期待したい。

 

もうすぐ終わるけれど、どうせすぐ始まる

早いもので、今年もまもなく終わる。明日は仕事納めである。

今更新規で顧客を開拓しても仕方ないし、今年はもう営業に回るのはやめよう。社内で調整しないといけないあんなことや決裁書におこさないといけないこんなこともあるけれど、このタイミングで動いても、みんなに迷惑。だからやめよう。そんな口実で、先週からゆるゆると仕事をしている。

休み前のこのわくわく感は、社会人になっても三十路になっても変わらない。

しかし、私は知っている、SMAPはもう戻ってはこないが、仕事は再びやってくるということを!

今月サボった分、来月営業に回らないと予算は達成できないということを!

光陰矢のごとしとはよく言ったもので、時間が過ぎるのは飛ぶように早く、楽しみにしていたことはどんどん通り過ぎ、休日はあっという間に流れていき、気づいたら日常に戻っている。時間が自分の前に急速に近づいてきて、猛スピードで通り過ぎていき、振り返ると後ろにばかり流れてたまっていっているようだ。そして年々その速度は加速しているように感じられる。この繰り返しで、気づいたらお墓の中で冷たくなっているのではないかと絶望感すら覚える。年末年始もきっと瞬きをしている間に終わってしまうのだろう。

そう、いくら年末年始のちょっと長い休みがあっても、どうせすぐ来年の仕事はやってくるのだ。それでもかりそめの休息を楽しみに待ちつつ、今年最後のブログ更新としたい。

来年も良い年でありますように!