くすぶりOL日記

いつの間にか母になった30代OLが仕事や子育て、ファッション、アラサー友達の生態などを気ままに綴ります

それいけ!貧乏ダイエット!

社会人になってから少しずつ体重が増加している。
少しずつ、というのは1年に1㎏程度だ。1年に1㎏というと1ヶ月単位では100gにも満たない範囲での増加ということになり、ほぼ誤差、体重計では分からない程度の増加ということになる。
そこで大して気にもせず放っておいたら、いつの間にか学生時代と比較して6㎏くらい体重が増加していた。これはまずいとようやくダイエットに目覚めた次第である。

さて、とりあえず運動をしようと思ったが、ジムというものは月会費が高い。せいぜい週に1回行くのが限界で、ベルトコンベアーのようなものの上でドスドスと足踏みしているだけで月1万円が飛んでいく。お金がもったいないので、いかにお金をかけずに運動をし、痩せるかということを考えて実践してみた。名付けて貧乏ダイエットである。

 

まず、ゼロ円で痩せるには、その辺を走り回るのが手っ取り早いだろうと思った。
しかし、近所に遊歩道のような優雅なものはないので、所狭しと並んでいる住宅街のなかをひたすら突っ走るしかない。静まり返った家々のあいだをわたしの足音が響き渡ってなんともきまりが悪く、さらにとつぜん家から飛び出して来た子どもとぶつかりそうになるなど、危険なシーンもしばしば。その上、思ったよりも信号が多く、しょっ中立ち止まらないといけないことに気づいた。走りにくいし、事故の危険性はあるし、何より近所迷惑である。以上の理由から、近所のランニングは断念した。

 

次に目をつけたのがフラフープダイエットである。Amazonで組み立て式のものが千円台で売られており、貧乏ダイエットにはぴったりだ。しかし、なにぶん安いゆえ、口コミを見ると、回している途中でフラフープが空中分解し、部品がすっ飛んで窓ガラスが割れたなどという恐ろしい報告もあったが、臆せず購入してみた。幸い私のフラフープは空中分解しなかったが、これは意外に場所をとり、ごちゃごちゃした狭い私の部屋で実践するには不向きである。特に厄介なのは大きな姿見にフラフープがぶつからないよう、細心の注意を払わないといけないことだ。仕方ないので家族の部屋でフラフープを回していると、邪魔だのなんだのとクレームがきて、非常にやりづらい。
以上の理由から、フラフープは断念した。 

 

次に目をつけたのは、プール通いである。プールといってもジムにあるプールではなく、区民プールだ。2時間400円。これも貧乏ダイエット向きだ。
さて、通おうとするとこれがなかなか面倒臭い。まず、メイクを全て落とさないといけない。次に私は目が非常に悪いのにコンタクトを外さないといけない。度付きのゴーグルは高いので買わない。さらに、私は意味もなく無駄に髪が長い(腰のあたりまである)ので、髪を水泳キャップに詰め込むのに苦労し、乾かすのにも一苦労。極め付けに冬のプール帰りはとても寒かった!
以上の理由から、そろそろ暖かくなる時期だが、暖かくなる前に水泳を断念して今に至る。

 

ついにはダイエットそのものを断念する日も近いかもしれない。

英語、英語というけれど、みんな国語をなめんなよ

 

 

 

新しい学習指導要領の改訂内容が発表された。小学校3年生から英語の授業が加わり、小学校5年生から評価の対象となる。さらに、センター試験が廃止され、外部の民間試験による英語四技能の成績が大学入試に活用されるらしい。私の周囲だけかもしれないが、英語ばかりが取り沙汰されて、英語、英語とやたらとうるさいが、国語が軽視されていないか気になってしまう。

センター試験に代わる新しい入試問題では記述式の問題も導入されるようなので、決して軽視されてはいないと信じたいが、私がついつい国語という教科の扱いを気にしてしまうのは、大学時代、日本文学専攻で、まったく活用できていないが国語教育について少々かじり、教員免許も取得したからだろう。

 

国語が得意な人というのは他教科が得意な人と比較して、評価されにくい気がする。数学が得意、英語ができるとなると尊敬されるが、国語の場合は、「国語は日本語なのだから勉強しなくてもできる」と軽んじられる傾向にある。しかし、本当に「勉強しなくてもできる」のだろうか。

私は何も難解な古文・漢文の重要性について訴えたいのではない。(古典についても日本人の教養としてある程度は知っておきたいところではあるが)そうではなく、日常で求められる「読み・書き」の学習がきちんとこなせているのか、という点が気になるのだ。というのも、最近気がかりな記事をよく見かけるからである。昨年驚いたのが教科書レベルの基本的な文章を読めない中学生が多くいることを報じた「東ロボくん」のニュースだ。この報道から、文章の直前だけを見ていて文の構造を捉えられない生徒が一定数いることが浮き彫りになった。

 

LINEなど短文(あるいはもはや文ですらないスタンプ)でやりとりができるSNSに慣れた結果、長文が読めない子どもが増えているという調査結果も散見される。

私は教師ではないので、学生の読解力が本当に落ちているのかどうか現状を知ることはできないが、これはどうも学生に限った話ではないらしい。新入社員に読書感想文を書かせているという驚きの会社の記事もあった。

何も学校ではないのだからそこまでやらなくてもよいのではないか、担当する先輩社員もここまで面倒を見なくてはならないなんて大変だな、というのが率直な感想だが、しかし、そうでもせずには業務に支障が出るほど「国語力」の低下に危機を覚えているのだろう。

これらの記事を読んで私は「ほらね、勉強しなくても国語ができるなんてウソでしょ。国語をなめんなよ」と改めて思うのである。

 

もちろん、これからの世の中で英語は必要だろう。しかし、日本語が廃止でもされない限り、日本人はこれからも日本語で生活をし、日本語を母語としてアイデンティティを確立し、日本文化を海外に発信していくことになるだろう。ほとんどの日本人にとってこれからもコミュニケーションの礎となるのは日本語なのだ。

今の状況だと、英語も日本語も中途半端にしか身につかない人が増えてしまうのではないかと心配している。だから、国語もきちんと「勉強」しましょうね。

今、よみがえる受験のトラウマと脳内BGM病

センター試験も終わり、受験生はいよいよ本格的な受験モードに入っていることだろう。

大学受験をしたのももはや遠い昔、今となっては受験と縁のない生活を送っている私だが、未だにセンター試験のニュースを見ると、当時のセンター試験の記憶がフラッシュバックする。

雪が降るとの予測だったので、この東京の脆弱な交通機関に乱れが生じないかハラハラして前日眠れなかったことや、当日雪が降りしきる中、風邪をひかないようにとエスキモーのような格好をして会場に向かったこと、思うように点数がとれず、泣きながら自己採点をしたことなど、そのどれもがトラウマ以外の何者でもない。

それほどセンター試験は私にとってプレッシャーの大きいものだったのだと思う。

 

さて、時間との勝負といわれるセンター試験はもちろん、勉強というのは集中力が試される。受験生の頃は、もし試験本番で集中できなかったらどうしよう、という恐怖すらあったほどだ。

その頃私を悩ましていたのが、脳内BGM病という世にも恐ろしい病である。

これは、試験の最中など絶対に集中力を切らせてはいけない時に、突然脳内で大音量のBGMが本人の意思とは関係なしに選曲され、再生されるというものだ。

私が受験生の時に頻繁に脳内で再生されていたのは、タッキー&翼の「Venus」であった。私はタッキー&翼のファンでもなんでもなかったのだが、そんな本人の趣味嗜好は無視され、いざ集中、という時に勝手にチャッチャのリズムが始まってしまう。確かセンター試験当日まで、タッキー&翼と戦った記憶がある。ゆったりとしたクラシックでも流れてくれればよいのだが、選択の余地は与えられていないので、敵はもはや隣の受験生ではなくタッキー&翼だ。ひどいものである。シルクロード、愛は千里、ためらうなら忘れたい!

 

ところで、これは何も私に限った症状ではないらしい。高校受験の時、友人が私に先駆けて脳内BGM病と戦っていると打ち明けてくれたことを覚えている。当時はモーニング娘。の全盛期で、彼女の脳内では勝手にミニモニ。の「ミニモニ。ひなまつり!」が流れてしまうのだと話していた。推薦入試の作文を書いている最中に、頭のなかは一年中がひなまちゅり、だったらしい。(曲をご存じない方は是非調べていただきたい) なんともばかばかしい話のようだが、本人はミニモニ。との戦いに必死である。ちなみに彼女は無事にひなまちゅりに打ち勝って第一志望校に合格した。

 

脳内BGM病はその後も集中力を試される時に限ってよく発症していたが、気づけばここ何年も発症していない。治ったのかと思ったが、そうではなく、最近は入試ほど集中力を要する場面に遭遇していないだけなのだろう。受験生の皆さんには、受験前にはなるべく音楽番組などを見ないようにアドバイスしたい。

年賀状の失敗あるある

年賀はがきの発行枚数が年々減少しているとニュースになっているが、皆さんは今年、年賀状を出しただろうか。私の勤務先は古い体質であるせいか、まだ年賀状の文化が根強く、出さないと年明け早々、少々肩身の狭い思いをする。そこで面倒くさいことこの上ないが、年賀状を出さざるを得ない状況がずっと続いている。

年賀状準備の最も憎き点は、大切な大切な年末年始休暇の一部を奪っていく点である。計画的にクリスマス頃までに年賀状を用意しておけばよいのだが、とにかくやる気がないので、準備は後手に回り、休暇に入った29日からやっと制作にとりかかることになる。だいたい60人分ほどの住所を確認し、喪中の確認をし、デザインを決め、印刷をし、めんどくせえ、やってられるかと悪態をつきながらメッセージを書いていると、たいてい30日の夜である。下手をすると31日にまでずれ込む。もうこれで休暇の半分が消えてしまう。実に腹立たしい。挙句の果てに31日にポストに投函した際には、元旦に年賀状が届いていないと言われる始末だ。苦労した上に、文句まで言われるなんてたまったものではない。

そんなこんなで憎き年賀状であるため、一刻も早く仕上げてしまおうと作業は往々にして雑になる。これは他の社員も同様なようで、毎年様々な年賀状のミスが発生している。住所が間違っている、名前の漢字が間違っているなどは序の口で、いろんな「恥かき年賀状」が見受けられるので、羅列してみよう。

 

・あぶり出し年賀状

裏面が白紙である。ひょっとしてあぶり出しかと思ってしまうがなんてことはない、印刷のし忘れである。

・差出人不明

これは毎年ある。差出人が書いていない年賀状だ。筆跡や、印刷されている子供の写真から差出人の推測が求められる。

・余計なものまで印刷している

以前一人暮らしをしていた頃、会社の名簿に ※実家の住所 と注意書きをしておいたら、その注意書きまで印刷して送ってきた者がいた。 ○丁目▽番★号※実家の住所。

不思議な住所である。

・明らかに違う人宛のメッセージが書かれている

一度もランチに行ったことがない人から「今年も一緒にたくさんランチにいけるとよいですね♪」などと書いた年賀状が届いたことや、同期から明らかに上司にあてた文面の年賀状が届いたことがある。私宛のメッセージはいったい誰のもとに届いてしまったのだろう。

・同じ人から2通来る

これもよくある。ご丁寧に別々のメッセージが書かれていたりする。

・喪中はがきを出したのに来る

こちらも喪中ハガキを出し忘れたかと心配してしまう。

 

このようにいい加減に年賀状を作っていると、正月早々から恥をかく上、ブログのネタにまでされてしまうので、 今後は注意したいものだ。でも何よりも年賀状文化がなくなることに期待したい。

 

もうすぐ終わるけれど、どうせすぐ始まる

早いもので、今年もまもなく終わる。明日は仕事納めである。

今更新規で顧客を開拓しても仕方ないし、今年はもう営業に回るのはやめよう。社内で調整しないといけないあんなことや決裁書におこさないといけないこんなこともあるけれど、このタイミングで動いても、みんなに迷惑。だからやめよう。そんな口実で、先週からゆるゆると仕事をしている。

休み前のこのわくわく感は、社会人になっても三十路になっても変わらない。

しかし、私は知っている、SMAPはもう戻ってはこないが、仕事は再びやってくるということを!

今月サボった分、来月営業に回らないと予算は達成できないということを!

光陰矢のごとしとはよく言ったもので、時間が過ぎるのは飛ぶように早く、楽しみにしていたことはどんどん通り過ぎ、休日はあっという間に流れていき、気づいたら日常に戻っている。時間が自分の前に急速に近づいてきて、猛スピードで通り過ぎていき、振り返ると後ろにばかり流れてたまっていっているようだ。そして年々その速度は加速しているように感じられる。この繰り返しで、気づいたらお墓の中で冷たくなっているのではないかと絶望感すら覚える。年末年始もきっと瞬きをしている間に終わってしまうのだろう。

そう、いくら年末年始のちょっと長い休みがあっても、どうせすぐ来年の仕事はやってくるのだ。それでもかりそめの休息を楽しみに待ちつつ、今年最後のブログ更新としたい。

来年も良い年でありますように!

過酷な露天風呂

1年の疲れを癒そうと、秘境の温泉に行くことになった。秘境の温泉。なんと素敵な響き。人里離れた静かな温泉地でひっそりと過ごす休日。なんと優雅。わくわくしながら奥鬼怒へ向かった。

最寄りの駅に宿の送迎バスが到着。なんとここから宿までバスで2時間かかるという。さすが秘境の地である。バスに乗り込むと、ひたすらにただひたすらに山道を登っていく。

高度があがると、道が舗装されていないらしく、バスががたがた揺れる。山道をくねくねと曲がるたびに乗客は右に揺れ、左に揺れ。私は乗り物に乗るとどんな状況でも寝てしまうという特異体質なため、激しく揺れるバスに応じてかなりアクロバティックな格好で寝ていた。

 

ふと起きるとそこは雪国だった。ついでに首も腰も痛かった。

 

え、雪が降っているの。東京は暖かかったんですが。思っていたのとちょっと違うみたいだ。

バスを降りるとあっという間に雪がわが身に降り積もっていく。身を切るような寒さだ。

お部屋にはがんがんに暖房が入っていて暑いくらいだが、これではなかなか外に出る気になれない。

 

さて、肝心の温泉はどうか。一面の雪の中に湧き出る、露天風呂。猿でも浸かっているイメージだが、これが想像を絶する過酷さだった。

まず、露天風呂にたどり着くまでに浴衣姿で外を歩かなければならない。宿のスリッパから玄関に置かれているサンダルに履き替えようとすると、サンダルが凍っていて靴箱にはり付いており、はがれない。なんとかむしりとるようにしてサンダルに足を通すと、冷たいを通り越してじんじんと痛い。信長の草履を懐で温めていたという豊臣秀吉のありがたみを痛感する。私のもとにもカモン、秀吉!

雪の降りしきる中、小走りで屋根のある場所に向かう。そして、外気がびゅーびゅー入ってくる脱衣所で裸にならなければならない!尋常ではない寒さである。年に数人はここで心臓発作を起こして死んでいるんじゃなかろうかと思いつつ、勢いよく脱ぐ!脱いだら外に出る!雪が降っている!自分の体に雪が積もる前にすばやく湯に浸かる!熱い!でも寒いよりまし、とにかく浸かる!!

浸かってしまえば、はー、極楽極楽。なんとも眺めの良い雪見風呂である。ただし、頭は凍りそうなほど寒い。そして、この後待っているのは…今たどってきた道を引き返さなければならないという厳しい現実との直面!

 

秘境の地の雪見風呂は、私のような温泉初心者には少々過酷すぎた。

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条件が細分化されすぎる婚活パーティー

先日、ふと手にしたフリーペーパーに、婚活パーティーの情報が載っていた。

最近は街コン、趣味コンなんぞ序の口で婚活自体が多様化し、わけのわからない「コン」がそこかしこで催されており、婚活パーティー運営会社も差別化をはかるため、色んな条件の人の出会いの場を設けているようだ。

 

フリーペーパーに載っていた婚活パーティーの男性の参加条件を見てみよう。

たとえば年収800万以上、医師限定、国公立&有名私大卒限定。これらは古典的で非常に分かりやすい。年収(カネ)、医師(職業ステータス)、(学歴)といった高学歴高収入を狙った、いわゆる「高スペック男子」狙いの女性が群がることだろう。

ちょっと難易度が上がると、合わせ技が出てくる。たとえば25〜35歳かつ大手企業勤務かつ非喫煙者、など。どこからが「大手企業」なのかは少々気になるが、これもまあ、古典的条件でわかりやすい。

職業でいうと、手に職系、などちょっと変わった職業しばりもある。

 

一番気になったのが、身長176㎝以上、体育会系マッチョ、というしばりだ。高身長のスポーツマン、というのはこれまた古典的な条件だが…なぜ176センチなのでしょうか。175センチではだめなんでしょうか。蓮舫さんのノリで聞きたくなる。175センチの人が参加したら、身体計測などで引っかかるのでしょうか。

そしてさらに謎なのが体育会系マッチョである。何をもって「マッチョ」と認定するのだろう。身体計測の際に身長に加えて筋肉量でも測るのか。マッチョ認定士なるものがいるのか。学生時代マッチョだったが今や中年デブ、という残念男子は私の周りに何人もいるが、元体育会系マッチョはきっとだめなのだろう。そして「体育会系」とあるからには、きっと学生時代に体育会系の部活にでも入っていないといけないのだろう。元吹奏楽部のマッチョがいたらどうするんだろう。いないか。

しかし、これだけ条件が細分化されていると、参加する男性もどれに参加したらよいものやら、分からなくなってしまうのではないか。ええと、大手企業勤務だが喫煙者で身長175センチのマッチョ30歳は…ああ、どれにも参加できないわ。惜しいな。というかそれ誰だ。

 

ちなみに女であるわれわれの条件はどうなっているのだろう…と改めて見ると、年齢しかしばりがなかった。これも古典的だな。結局女は年齢がすべてか。