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嗚呼、病院難民

銀行と病院はサラリーマンに優しくない。

どちらも就業時間中に開いて、就業時間中に閉まる。銀行の窓口に行くことはめったにないのでそれでも不便を感じないが、病院は本当に困る。

平日に病院に行くのを断念した場合、土曜の午前中という最も寝ていたいときに、疲れた体に鞭打って病院に行くことになる。よけい具合が悪くなりそうだ。大きな病気なら時間休でもとって通院するが、「ちょっとした不調」だとなかなか病院に行く気になれない。忙しいのも相まって、通院することは後手に回り、気づいたら虫歯が進行していたり、じんましんが慢性化して治らなくなったりしている。

それでも会社の近くで18時半頃まで開いている病院はあるから、平日、定時で社を出て、時間ぎりぎりに病院に行ったら、なんと追い返された。診察終了時刻10分前についたのに、である。また、何とか間に合って診察を受けられても、横で受付のお姉さんがこれ見よがしに掃除や銭勘定をはじめたりする。まったく落ち着かない。

休日、病院に入れたからといって油断はできない。最近やぶ医者にあたる率がとても高くて絶望している。ありがたいことに、私は大きな病気もなくここまでやってきて、いたって健康体。せいぜい風邪をひくかものもらいにでもなるかくらいだから、このくらいよっぽどのやぶ医者でない限り治せるであろうと見くびっていると、ひどい目に遭う。

まずコミュニケーションをとれない医者が多い。コミュニケーション能力なんて高度なことを言っているのではない。滑舌が悪くて何を言っているのかわからない、あるいは、人の会話を無視して、「うん、うん、うん」とあいづちらしき発声をして話をろくに聞かずに終わり、なんていう医者が多いのだ。さらに、会話ができてもひどいケースがある。

以前、風邪をひいて近所の病院に行ったら、適当な診察をされた後、適当な薬を出され、「様子を見て治らなかったら近くの病院に行ってください」と言われた。ここが近くの病院なんですけれど!!

また、母は手が痛くて整形外科に行ったら、「リュウマチじゃないよね?」と訊かれたという。それはあなたが判断するんですよ!!

まったく、ちゃんと診察してほしいものだ。

 

テレビのニュースでは早くもインフルエンザの季節が到来したと言っている。そろそろきちんとした病院を見つけて冬に備えたいものだ。ああ、行きたいときに開いていて、きちんと診察してくれる病院は、一体どこにあるのでしょうか。

おそるべしFacebook時代

仕事上、ベンチャー企業などから営業のメールを受け取ることがある。メールを見て、まずその会社のHPをチェックし、事業内容などのおおまかな情報を仕入れた後、連絡をくれた人の役職などをチェックする。これは昭和生まれの人の発想である。

私が上記の作業をちんたらとやっている間に、隣では後輩ちゃんが、

「うわ、チャラそう!あ、しかも意識高い系の投稿が多い。○○大卒かあ。おっ、××社の■■さんと友達みたいですよ!」

と矢継ぎ早に個人情報を引き出している。彼女はFacebookを見ているのだ。

 

最近、Facebookで得られる情報量の多さに驚いている。ベンチャー企業の役職のある人はたいていFacebookをやっているが、その人の容姿、年齢、学歴、趣味嗜好、人間関係までが一発でわかってしまう。

クライアントをFacebookで調べるなんて邪道、というのもまた昭和生まれの人の発想である。Facebookで事前に調査しておくことによって、「○○が趣味なんですね!」「○○さんとお知り合いなんですね!」などと会話のネタが見つかるため、初対面でも話が弾む。

隣の席の後輩ちゃんはTwitterも駆使しているが、こちらは商品・サービスの評判や話題性をチェックするのにもってこいだ。これまで各社のHPばかり見ていた私は営業としてすっかり遅れをとってしまっていた。時代は変わったなあ、昭和生まれも遅れをとっていてはいけない。ついでに言うと、先述のベンチャー企業の営業マンも平成生まれだった。若いな。

 

しかし、裏を返せば、私もクライアントなどから検索される可能性があるということだ。そこのあなた、のんきにマヌケ面をさらし、食べたケーキの写真ばかりアップして全世界に公開していては、会う前からおバカさん認定されてしまうかもしれませんよ。すべて私のことですが。

ああ、念のためあとでFacebookのプライバシー設定を確認しておこう……。

スポットライトの当たらない人生と、あがり症の関係

実は趣味で楽器をやっているが、あがり症なので困っている。あがり症なのは学生の頃からで、卒業文集にありがちな「なんでもランキング」で私は「将来大物になりそうな人」や「かわいい人」といった栄えあるランキングには絶対にランクインしないのに、「あがり症の人」という項目でのみベストスリー入りしていたのは忘れられない不名誉な思い出である。

よく「人前に立つと緊張してしまう」という人がおり、それはよくわかるのだが、私の場合、人がいなくても緊張するのだから、我ながら不可解である。

先日、ある発表会のリハーサルがあったのだが、舞台に上がった途端、緊張してしまい、いつも通りの演奏が全くできず、とても悔しい思いをした。リハーサルなので観客は一人もいない。それにも関わらずあがってしまうのだ。何とも理解しがたい。一体何がいけないのだろう。

 

原因としていくつか考えられることがある。一つはやはり、「人が一人でもいるとダメになる」という可能性。リハーサルなので観客はいないが、舞台にはピアニストがいる。照明や進行管理をしているスタッフもいる。その人たちを意識してしまい、緊張してしまうのだ。

もう一つの可能性が、「非日常の状況に緊張してしまう」というもの。一人で舞台に上がり、スポットライトを浴びて演奏する。これは日頃体験しない状況であり、そのため緊張してしまうのではないか。

どうも後者の説のほうが可能性として高い気がする。振り返ればこれまでの人生、私にスポットライトなど当たったことがあるだろうか。答えは否、である。日頃スポットライトの当たらない、地味な人生を送っているから、突然自分にライトが当たって動揺するのだ、きっと。

 

ここはひとつ、スタッフに私の時だけライトを消していただくよう、お願いしたいところである。暗所の中ではきっと緊張も解けるはずだ。ただし、楽譜がまったく見えなくなるので、記憶力が試される。むむむ、やっぱり照明を落とす案は難しそうだ。

 

となると自分で自分の緊張をコントロールするするしかない。しかし、これはとても難しいことだ。よく緊張するのは自分に自信がないからだというが、まさしくその通りで、私にはまったく自信がないのだ。これだけは自信を持って言える。

とりあえず深呼吸をして、息をしっかり吸おう、という何の変哲もない対応策を自分に課している。本番は一週間後だ。緊張を解くよい方法があったら、ぜひ教えていただきたいものである。

驚異的にデスクが汚い人々

どこの部署に行ってもたいてい一人はものすごくデスクが汚い人がいる。(うちの会社だけかもしれない。)今回はそんな「デスクが汚い人」のあり様に注目してみよう。(注目する意味があるのかどうかはまた別の議論だ。)

彼らのデスクは一面が書類の山、出社をしたらまずそこをかき分けてパソコンを立ち上げる作業から始まる。ひどいケースではデスクの下の引出しまでが全開になって、その上にまで書類が積もっている。デスクの書類の山には、いつ配られたのかも思い出せないような誰かの古いお土産が腐って埋もれている。たちの悪いことに、わが社のデスクは社員ごとにきちんとした仕切りがなく、島ごとに一続きになっている。よってゴミ、もとい書類の陣地もボーダレスとなり、隣のデスクにまで侵入していく。私は夜遅く、残業後に「デスクが汚い人」の隣の席の先輩が、ゴミの山を隣の陣地に押し戻している姿を幾度となく見た。(ついでに古いお土産をこっそり捨てていたのも見た。)

 

そんなはた迷惑な「デスクが汚い人」が上司だったことがある。上司だと決裁書など重要な書類をやり取りすることも多い。「デスクが汚い人」の書類は消えてなくなろうと知ったこっちゃないが、心配なのは私の書類までなくされやしないか、ということである。

決裁書を確認してもらうため、手渡ししようとすると、上司に「デスクの上に置いておいて」と言われる。え、この上に置くんですか、非常に置きたくないんですけれど。そう思いながら決裁書を仕方なくデスクに置くと、おいたその瞬間からゴミの山と一体化していることにまず不安を覚える。上司がすぐに書類を確認しない場合、例の決裁書の上にまた書類が積もっていき、更に不安は募る。さらに一度でも雪崩がおきたら、もはや発掘される可能性は絶望的である。そこで例の隣の先輩がゴミの山を押し戻している残業中に、私は例の決裁書をこっそり一番上に乗せなおしておく。

こんな調子で書類の管理がきちんと行われているのかはなはだ疑問だが、意外にも「書類をなくした」という話を聞かない。(むしろ私のほうが書類をなくしかけて慌てている。)「あの資料、どうなっています?」と尋ねるとがさがさと山を漁って、どうだ、こう見えて俺はきちんと書類の位置を把握しているんだぜとばかりに、目的の書類を出してくる。とすると、実は管理が行き届いている人なのではないかと思い、先述の「決裁書を一番上に載せなおす作業」など無用のことのような気がしてくるのだ。

しかし、だからといって汚いデスクをそのままにしていいというわけではない。例の隣の席の先輩は日々ゴミ、いや書類とのせめぎ合いに辟易しているのだ。人事異動があり、私はその部署を離れてしまったけれど、隣の席の先輩のためにも今度こっそり断捨離の本でも載せておこうか。どうせすぐ書類に埋もれるだけだろうけれど。

さよならAneCan、プランタン銀座、そして赤文字系の終焉

今週7日にAneCanの最終号が出ると聞いて、さっそく買ってきた。押切もえちゃんの表紙、この10年間の思い出を振り返る記事の数々…雑誌の最終号はなかなか切ない。

AneCanといえば、言わずと知れたCancamのお姉さん雑誌だが、このCancamもえびちゃんが専属モデルだった頃と比較して部数は大暴落していると聞く。

もちろん、雑誌が特に若い世代に売れなくなってきているのが原因の一つだろうが、20代向けファッション誌の中でもCancamの売上減は突出しているように思える。やはりもう一つの大きな理由が、いわゆる「赤文字系」がはやらなくなってきているということだろう。赤文字系とは、男性からの「モテ」を意識した、保守的なコンサバファッションのことだ。

そんな赤文字系が衰退していることを象徴するような、もう1つ大きなニュースが、プランタン銀座の閉店である。プランタン銀座には私の好きなブランドのお店がたくさん入っており、よく妹や友人と行ったものだった。先日、プランタン銀座に行ってみたら、セールコーナーばかりになっていて、とても悲しくなった。プランタン銀座は別称の商業施設に生まれ変わるというが、これまでのプランタン銀座のようなお店が入るとは期待できない。

振り返れば、この数年で私の好きな洋服のブランドは次々と消えていっている。キスミス、ネットディマミーナ、プライドグライド、ラバーラ…今も私のクローゼットの中にあるこれらのブランドの新作を買うことは、もうできない。

では、なぜ「赤文字系」の服が売れなくなっているのか

最近では、ファストファッションによるカジュアルなスタイルが主流となり、お金をかけず、気負わずファッションを楽しむ傾向が強くなっているように思う。そして、「モテ」がトレンドではなくなったように思える。かつてのCancamはその代表格だが、赤文字系はいかに男性からモテるかを意識した、いわば男性依存的なファッションだった。そんな男性依存的な意識から若い女性が脱却しつつあるのかもしれない。

話を冒頭のAneCanに戻すが、実はここ2年ほど、私はAneCanを買っていなかった。雑誌のいたるところから「敗者感」があるのが嫌だったのだ。アラサ―になって私たちは男性からちやほやされなくなった、若い女に負けている、私たちは弱者、といったような。

でも、本当にそうなのかもしれない。「ゆるふわ」ではもう勝てない時代に入っているのだ、きっと。

ところでここ最近私が読んでいるのは、ゆるふわ、かわいい系雑誌の「美人百花」である。

最近「美人百花」も付録に頼っている感があり、やや不穏な予感がしているが、ここに読者がいるので、AneCanの分まで是非頑張ってほしい。

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メールと電話 どちらが失礼か

先日他部署の課長に質問したいことがあって、メールで連絡した後輩が注意されていた。メールではなく、電話をよこせ、と言われているのである。

同じような経験は私にもある。メールで他部署の人に問い合わせをしたところ、「最近の若い者は何でもメールで済ませようとする」と注意されたのだ。

 

このような話は最近よく聞く。若手社員は問い合わせの手段としてメールをよく使うが、中堅以上の社員はメールを嫌い、電話で連絡しなければ失礼だというのだ。私が見聞きした感覚だとメール派と電話派に分かれる「境界線」は40歳くらいで、アンダー40はメール派、オーバー40は電話派である。

元々人と話すのがそんなに得意ではないこともあって、私もメールで済ませてしまうことが多いのだが、それ以外にもメールを選択する理由はある。電話だと相手がその時どんなに忙しい状況だろうと電話対応を強制することになり、特に急ぎの用事ではない場合、ある意味不躾なのではないかと思うのだ。冒頭の後輩も、急ぎの案件ではないし、お手すきの時にお返事をいただければ、という意図もあってメールを送ったのだという。果たして、メールでの連絡は本当に電話より失礼にあたるのだろうか。

 

アンダー40の私にはなぜメールが失礼なのかがよくわからない。軽く済ませようとしていると思われるのだろうか。でもメールの方が文面を吟味して送ることになるため、軽いとは思えない。もちろん緊急性の高いものは別だろう。メールのみだといつ相手に確認してもらえるかが不明確なので、少なくとも電話で様子をうかがうくらいのことはすべきだろう。また、証拠を残したくない連絡にも電話のほうが勝っている。しかし、「お手すきの時に教えてください」という内容を、顔見知りの社員に送るのに、メールは本当に失礼にあたるのか。

 

そう思っていた矢先、ネットで電話でなんでもすませようとする人が多くて失礼だ、という意見を見つけた。こちらの状況にかまわず、自分に都合のいい時に電話をしてくるのは、自己中心的で腹立たしい、というのである。そして、推測するにその「電話失礼説」を述べているのは比較的若い男性で、電話で連絡してくる「失礼な人」はオーバー40と思われる。

 

やはりこれは世代間ギャップの一つなのだろう。こうなってくると、もうケースバイケースで時と相手(の年齢)によって使い分けをしていくしかない。連絡手段が増えて便利になったのかむしろ面倒になったのか、それはどちらともいえない気がしている。

来ぬ人を

雑踏に紛れながら、彼が来るのを待っている。

待ち合わせをしていないんだから、彼が来るはずがない。

そもそも、もう別れてしまった人だから、会えるはずがない。

それなのに、人ごみの中に過去の二人の面影を探して、

じっとたたずんでいる、新宿東口の改札前。

 

来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くやもしほの身もこがれつつ