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冷静沈着なのではない、心が死んでいるだけだ

楽しいGWも終わって、いつもにまして勤務中にだるさを感じる。睡眠をしっかりとっているのにこの疲れは何だろう。早くも5月病かもしれない。
隣の席の後輩ちゃんを見ると、いやはやパワフルで、休み明け早々バタバタと走り回っている。彼女はいつも一生懸命で、喜怒哀楽がはっきりしている。上司が無責任だとか、案件の進め方が支離滅裂だとかで、よく怒ったり泣いたりし、大きな案件がとれると飛び上がって喜ぶ。そんな彼女は私に、
「◯◯さんっていつも冷静沈着で、落ち着いてますよねー、私ももう少し落ち着かなきゃなぁと思います!」
と言う。
私は力なく曖昧に微笑むだけだ。

 

後輩よ、私は冷静沈着なのではない。心が死んでいるだけだ。
仕事をしていると、理不尽なことがたくさん起きる。自分が一生懸命準備していた案件が上司の鶴の一声でふっとんでぜんぶ無駄になったり(しょっちゅうある)、仕事の依頼先が締切を守ってくれなくて納期が遅れ、クライアントから怒られたり(前の部署ではよくあった)、腹の立つことも多い。
しかし、そんな時感情的に振る舞うのではなく、感情をコントロールするのが大事だと人は言う。私も20代前半の頃はよく怒っていたものだが、最近はそういうこともなくなった。本来の私は泣き虫だが、仕事で泣くことはない。これだから女は、と思われるのも嫌だし、若い子ならまだしも30代女が泣いているのはみっともないだけだろう。
このように、大人の対応を、と思っているうちに気づいたら心が死んだように感情がなくなってきていることに気づいた。だんだん自分の意思がなくなり、やがて自分がどう思っているのかもわからなくなっていくのだ。これはおそろしい。

 

そんな時、かの有名な茨木のり子さんの「自分の感受性くらい」という詩に出会った。
自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ、で終わる、心に響く詩だ。
感受性と感情はちょっと違うような気もするが、間違いなく心が乾ききり、感受性も鈍っているので、私はばかものである。
表面的にはポーカーフェイスでも、その時自分がどう思っているのかを自分で認識できるようにしておくことはとても大切だと改めて思う。こうしてブログなどを書くのも有効かもしれない。
会議でも自分の意見を持つように努めないと、どんどん自分の考えがなくなっていくので怖い。
感情をコントロールするのも良し悪しがあるよなぁと思う、今日この頃だ。


このGW、みなさんは自分の感受性を取り戻しましたか?

ひとりでできるもん!...どこまで?

私が大学生の頃だっただろうか、便所メシという言葉がはやった。大学の食堂で一人で食事をすることができず、トイレで食事をする若者がいる、というのである。一人でいると周囲から友達がいないかわいそうな人だと思われそうで、いたたまれないというのだ。当時は、ずいぶんナイーブな人がいるもんだなぁと驚いた。トイレで食事なんて考えただけで気持ちが悪い。

私はといえば、自慢じゃないが友達の少ない大学生だった。しかし、一人でも気にせず食堂に行き、隣の女子の恋バナを盗み聞きしながら食事をし、隙間時間には図書館で昼寝をしていた。それはそれで気ままで楽しい大学生活だったなぁと思う。

 

あれから数年の間で、「おひとりさま」はかなりの市民権を得たと感じている。雑誌でも、旅行や飲食店のおひとりさま特集をよく見かけるようになった。会社内でも休みに一人で海外旅行に行く女性がたくさんいる。
彼女達を見ていると、自立した女性という感じがしてかっこいいな、と思う。私は一人で海外旅行には行けない。一人がどうこうというより、語学力に不安がありすぎるからだ。

一人でできることと一人でするにはハードルが高いことがあって、その基準が人によって異なっているのは面白い。
たとえば、一人カラオケはだめだ、という人がいる。一人でしょっちゅうカラオケに行っている(歌うのではなく楽器練習のため)ので、私からするとなぜだめなのかが理解できない。
カラオケといえば、以前にカラオケ館で、誕生月に来店するとチョコレートパフェを無料でプレゼントしてくれる、というものがあった。一人カラオケをした際に、果敢にも注文してみたが、一人でいるところに店員さんが「お誕生日おめでとうございます!!」と言ってパフェを持ってきてくれた時はさすがに虚しくなった。誰か、一緒に私の誕生日を祝っておくれ...。私もヒトカラパフェバースデーは無理だった!もう2度とやるまい。

 

私の場合、一人でいるのを他人に見られることに関しては抵抗がないが、単純に一人でやってもその面白さを感じられないものがだめな気がする。対して便所メシ系の人(なんだそのネーミング)は、おそらく一人でいるところを見られることが苦痛だと思うので、彼らとはストレスを感じるポイントが違うのかもしれない。

 

しかし最近は、何も一人で行かなくても...と思う場所まで一人で行って、私はこれも一人でできるもん!と自慢する人たちまででてきた。ディズニーも行けるもん!焼肉もできるもん!といった具合である。
このように自慢大会にまでなってくると、もはや何が何だか...という気がしてくる。

 

亀を木に登らせようとする豚ー他人の苦手と向き合う


昔、大ヒットした小泉吉宏さんの漫画、「ブッタとシッタカブッタ」のシリーズに、亀を木に登らせる豚、という四コマ漫画があった。
やたらと気の強そうな豚が、ムチを持って亀に「この木に登れ」と命令をする。亀は必死に木に登ろうとする。しかし、当然だが亀は木に登ることができない。結果、亀はひっくり返ってバタバタし、豚は俺が命令しているのになんでこれができないんだ!と怒り狂っている。
こういう関係性はお互い不幸になるね、と示す、とても悲しい四コマ漫画だなぁと思う。

小泉さんの漫画が流行っていた頃、私は子どもだったのでその良さが深くは分からず、なんとなく読んでいただけだったが、先日たまたま改めてこの漫画を読む機会があり、この四コマ漫画が深く胸に刺さって泣きそうになった。


なぜこんなことを書いているかというと、ここ数年で、この亀と豚の関係性に匹敵するものを何度か見聞きし体験する機会があったからである。

たとえば、カップルの関係性。特に同年齢の婚活中の人を見ていると、自分の価値観に基づいた理想の伴侶像があって、それに基づいて人をジャッジしようとする人がいる。自分の理想に満たない部分があると、その欠点を何とか自分の理想通りにしようとして、相手を言葉の暴力で叩く。結果、その人を押しつぶしてしまい、破局を迎える。いわゆるモラハラ系彼氏というやつだ(きっと彼女版も存在する)。

たとえば、人前で部下を叱責するパワハラ系上司。適材適所で人に仕事を与えるのも管理職の仕事だと思うのだが、明らかにその人に向いていないポジションに配置して、その人の仕事のやり方を批判し、ねじ曲げようとする。結果、うつ病の社員が増えたりする。

誰にだって欠点はある。いや、むしろ欠点だと思っているのもその人の価値観でしかなく、本当は魅力的な部分なのかもしれないのに、それを叩きつぶしてしまう。


無理を言ったって人の性質はそうそう変わらないし、そもそも他人を自分の思い通りに変えようということ自体が間違いなのだ。
こんな当たり前のことがまかり通らないことがあって、自分も加害者にならないように気をつけようと心に誓う。

春ー花粉と風邪と酒やけとー

いよいよ春がやってきた。世間では新入社員の入社や人事異動などにより、フレッシュな気持ちで新年度を迎えている人も多いようだ。
我が社はというと数年前から新卒採用を停止し、9月締めの10月始まりなので、年度始めですらなく、フレッシュさのかけらもなく、ただくしゃみと咳でフロアが賑わっている。

くしゃみといえば花粉症だが、最近、「花粉症認めない族」が増加している。くしゃみが出る、目がかゆい、鼻水が止まらないなどと明らかに花粉症の症状が出ていながら、決して病院に行かず薬も買わず、自分は花粉症ではないと言い張る人々である。
花粉症の人を見ると、確かに辛そうである。顔が隠れるほど大きなマスクをし、目をしょぼしょぼさせ、ぼろぼろになりながら仕事をしている。ああはなるまい、あの仲間には絶対に入るまいという強い意志とプライドが、花粉症認めない族を生み出している。鼻水を垂らしながら、自分は花粉症ではないと強く主張し、現実から目をそらし続けるのだから往生際が悪い。さっさと負けを認めるべきである。ちなみに私も最近くしゃみを連発しているが決して花粉症ではない。

ところで、冒頭でくしゃみと咳で賑わっていると書いたが、あちこちから咳をする音が聞こえるということは風邪でも流行っているのだろうか。
咳がひどく声がガラガラになっている後輩に声をかけたら、いや、風邪じゃないんです...酒の飲み過ぎで...酒やけです...と死にそうな声が返ってきた。咳が止まらない同期に声をかけたら、特別休暇をもらって...途上国に旅行へ行ったら...大気汚染がひどくて...絶対肺が汚れて変な病気になったんだ...と、これまた死にそうな様子。
花粉症に咳に謎の病に、いやはや、春爛漫のオフィスである。

 

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来たるAI時代に備え「ドラえもんのび太とブリキの迷宮」を観る

日経ビジネスの記事を読んでいたら、ドラえもんの映画を観ることになった。
おそらく意味不明な思考パターンであろうから、きちんと説明しよう。

先日、日経ビジネスに孫泰造さんのインタビュー記事が載っており、2040年頃には現在の仕事の8割が消滅し、人間のやる仕事はどんどんなくなると書かれていた。AI時代がやってきて、今の仕事は大半が消滅するというのは去年からあちこちで耳にする論説だ。
こういう恐ろしい現象は私が死んでからか、せめて現役をリタイアしてから起きてほしいものだが、2040年なら23年後。私はまだ50代。最新の技術にすんなり適応できるほど若くはなく、しかしまだ隠居生活にも入れず、ただリストラ対象になる世代となっている、といったところか。最悪だ。

 

AIが人間から何かを奪う、という言説をきくと、いつも思い出すのが、幼い頃に観たドラえもんの映画、「ドラえもんのび太とブリキの迷宮」である。
映画の舞台は科学技術が発達し、ロボットが人間の代わりに働くようになったチャモチャ星。しかし、ロボット技術が進歩しすぎ、 歩くことすら放棄した人間は体が弱り、自立歩行もままなくなる。ロボットの開発までロボットに担わせた結果、ロボットの反逆が起き、人間はロボット達に捕らえられてしまう。そのチャモチャ星を救うため、ドラえもん達一行が闘う、といったストーリーだ。
ロボットと人間の戦いを描いた作品は他にもいろいろあるだろうが、幼い頃に何度も観たせいか、この映画の印象は特別強い。そこで、冒頭に書いた通り、15年か20年ぶりにこの映画を観てみた次第である。

改めて観て感じたことは、90年代前半に、それも子ども向けに作られた映画としては、ロボットあるいはAIが発達しすぎることによる危機が本当によく描かれているということだ。ロボットが従来の人間の仕事を担うようになり、働かなくなった人間はどんどん衰えていく、という展開やコンピュータウィルスによって親玉をやっつけると子分ロボットにまでウィルスが広がっていくというネットワークのもろさまで、現在の大人でも学ばされる要素は多い。何より、「道具ばかりに頼っていると、自分では何にもできないダメ人間になってしまうよ」というドラえもんのセリフにはドキッとさせられる。
一方で、科学技術が発達した世界のロボットという設定なのに、ロボット達がねじまき式で、敵なのにかわいらしさがある点や、サンタクロースがスネ夫ジャイアンの危機を救うなど、子ども向け映画らしいほっこりするユーモアもある。

残念なのは、のび太達が最終的にドラえもんの道具なしでは勝つことができず、人間対ロボットという構図であるべきところが、人間にとって善良なるロボット対悪なるロボット、あるいは道具対道具の争いになってしまっている点だ。道具なしでは人間はロボットと互角に戦えないのか、とちょっと悲しくなる。

 

さて、話を冒頭に戻すが、この映画は決して子ども向けの作り話ではなく、身近に迫っている危機のように思える。
以前、自動運転の車のニュースを見て、友人と、そのうち私達は車の運転すらできなくなるね、と話したことがある。考えてみれば、私たちはスイッチなしでは風呂も沸かせない 、できないことが随分増えたね、と。


人間は進化しているのだろうか。道具によって退化しているのではないか。AIの発展は本当に人間に幸せをもたらすのか。人間の能力を奪い、人生の過ごし方の選択肢を奪うことにはならないか。
ドラえもんを観ながら首をかしげる30代がここにいる。

それいけ!貧乏ダイエット!

社会人になってから少しずつ体重が増加している。
少しずつ、というのは1年に1㎏程度だ。1年に1㎏というと1ヶ月単位では100gにも満たない範囲での増加ということになり、ほぼ誤差、体重計では分からない程度の増加ということになる。
そこで大して気にもせず放っておいたら、いつの間にか学生時代と比較して6㎏くらい体重が増加していた。これはまずいとようやくダイエットに目覚めた次第である。

さて、とりあえず運動をしようと思ったが、ジムというものは月会費が高い。せいぜい週に1回行くのが限界で、ベルトコンベアーのようなものの上でドスドスと足踏みしているだけで月1万円が飛んでいく。お金がもったいないので、いかにお金をかけずに運動をし、痩せるかということを考えて実践してみた。名付けて貧乏ダイエットである。

 

まず、ゼロ円で痩せるには、その辺を走り回るのが手っ取り早いだろうと思った。
しかし、近所に遊歩道のような優雅なものはないので、所狭しと並んでいる住宅街のなかをひたすら突っ走るしかない。静まり返った家々のあいだをわたしの足音が響き渡ってなんともきまりが悪く、さらにとつぜん家から飛び出して来た子どもとぶつかりそうになるなど、危険なシーンもしばしば。その上、思ったよりも信号が多く、しょっ中立ち止まらないといけないことに気づいた。走りにくいし、事故の危険性はあるし、何より近所迷惑である。以上の理由から、近所のランニングは断念した。

 

次に目をつけたのがフラフープダイエットである。Amazonで組み立て式のものが千円台で売られており、貧乏ダイエットにはぴったりだ。しかし、なにぶん安いゆえ、口コミを見ると、回している途中でフラフープが空中分解し、部品がすっ飛んで窓ガラスが割れたなどという恐ろしい報告もあったが、臆せず購入してみた。幸い私のフラフープは空中分解しなかったが、これは意外に場所をとり、ごちゃごちゃした狭い私の部屋で実践するには不向きである。特に厄介なのは大きな姿見にフラフープがぶつからないよう、細心の注意を払わないといけないことだ。仕方ないので家族の部屋でフラフープを回していると、邪魔だのなんだのとクレームがきて、非常にやりづらい。
以上の理由から、フラフープは断念した。 

 

次に目をつけたのは、プール通いである。プールといってもジムにあるプールではなく、区民プールだ。2時間400円。これも貧乏ダイエット向きだ。
さて、通おうとするとこれがなかなか面倒臭い。まず、メイクを全て落とさないといけない。次に私は目が非常に悪いのにコンタクトを外さないといけない。度付きのゴーグルは高いので買わない。さらに、私は意味もなく無駄に髪が長い(腰のあたりまである)ので、髪を水泳キャップに詰め込むのに苦労し、乾かすのにも一苦労。極め付けに冬のプール帰りはとても寒かった!
以上の理由から、そろそろ暖かくなる時期だが、暖かくなる前に水泳を断念して今に至る。

 

ついにはダイエットそのものを断念する日も近いかもしれない。

英語、英語というけれど、みんな国語をなめんなよ

 

 

 

新しい学習指導要領の改訂内容が発表された。小学校3年生から英語の授業が加わり、小学校5年生から評価の対象となる。さらに、センター試験が廃止され、外部の民間試験による英語四技能の成績が大学入試に活用されるらしい。私の周囲だけかもしれないが、英語ばかりが取り沙汰されて、英語、英語とやたらとうるさいが、国語が軽視されていないか気になってしまう。

センター試験に代わる新しい入試問題では記述式の問題も導入されるようなので、決して軽視されてはいないと信じたいが、私がついつい国語という教科の扱いを気にしてしまうのは、大学時代、日本文学専攻で、まったく活用できていないが国語教育について少々かじり、教員免許も取得したからだろう。

 

国語が得意な人というのは他教科が得意な人と比較して、評価されにくい気がする。数学が得意、英語ができるとなると尊敬されるが、国語の場合は、「国語は日本語なのだから勉強しなくてもできる」と軽んじられる傾向にある。しかし、本当に「勉強しなくてもできる」のだろうか。

私は何も難解な古文・漢文の重要性について訴えたいのではない。(古典についても日本人の教養としてある程度は知っておきたいところではあるが)そうではなく、日常で求められる「読み・書き」の学習がきちんとこなせているのか、という点が気になるのだ。というのも、最近気がかりな記事をよく見かけるからである。昨年驚いたのが教科書レベルの基本的な文章を読めない中学生が多くいることを報じた「東ロボくん」のニュースだ。この報道から、文章の直前だけを見ていて文の構造を捉えられない生徒が一定数いることが浮き彫りになった。

 

LINEなど短文(あるいはもはや文ですらないスタンプ)でやりとりができるSNSに慣れた結果、長文が読めない子どもが増えているという調査結果も散見される。

私は教師ではないので、学生の読解力が本当に落ちているのかどうか現状を知ることはできないが、これはどうも学生に限った話ではないらしい。新入社員に読書感想文を書かせているという驚きの会社の記事もあった。

何も学校ではないのだからそこまでやらなくてもよいのではないか、担当する先輩社員もここまで面倒を見なくてはならないなんて大変だな、というのが率直な感想だが、しかし、そうでもせずには業務に支障が出るほど「国語力」の低下に危機を覚えているのだろう。

これらの記事を読んで私は「ほらね、勉強しなくても国語ができるなんてウソでしょ。国語をなめんなよ」と改めて思うのである。

 

もちろん、これからの世の中で英語は必要だろう。しかし、日本語が廃止でもされない限り、日本人はこれからも日本語で生活をし、日本語を母語としてアイデンティティを確立し、日本文化を海外に発信していくことになるだろう。ほとんどの日本人にとってこれからもコミュニケーションの礎となるのは日本語なのだ。

今の状況だと、英語も日本語も中途半端にしか身につかない人が増えてしまうのではないかと心配している。だから、国語もきちんと「勉強」しましょうね。